引きこもり時代を振り返り「あのときの僕は、さぼってたんじゃない。必死に自分と戦ってたんだ」と、ようやく気づけた
先日、過去の棚卸をしようと最もつらかった時期である高校時代について記した。
僕の中で、二度と戻りたくないと思える時期は高校時代と、20代前半に実家に引きこもっていた時期だ。
その時代を経て今がある。
ありがたいことに今の僕には、書きたいことがたくさんある。
今の僕は時間があればパソコンの前に向かって、カタカタと何か書いている。
そんな僕の姿が妻からは不思議に映るようで「なんで、そんなに頑張って毎日書いてるの?」と尋ねられることもある。
特に頑張って書いている感覚はなく「内発的な動機で書いている」という感じだ。
そういえば引きこもっていた時代、家族に正反対のことを言われたことがあった。
兄から「なんでお前は頑張らないんだ?」「なんでお前は何もせず、ごろごろ寝てばかりいるんだ?」と度々責められた。
当時、僕も自分のことを「怠惰な人間」「さぼってばかりの人間」と思い込んでいた。
ネガティブなセルフ・ラベリングである。
しかし、いろいろ経験して過去の何もできなかった自分を振り返り次のように感じる。
あのときの僕は、さぼっていたのではなく、やりたいことが見つからず悶々としていただけなのだ。
傍から見ると「何もしていない人」「自堕落な人」と映っても、当人は外側へ伝えられない葛藤を抱えていることがある。
ただし、当人はそれを言語化して伝える術を持たないことが多い。そして心のどこかで「言っても伝わりはしない」というあきらめ、他者への不信を持っている。
情熱を注ぎこめることがあることは幸せだ。自分から「これをやりたい」と前のめりに没頭できる行為は、「もっとこうすれば、さらに良くなる」と自ら能動的に創意工夫できる。
反対に「私は何がしたいのだろう?」ともやもや悩んでいる時期は、つらい。つらく長く感じる。
今の僕は幸いにして、日々やりたいことをやりたいだけ存分にやれる日々を送れているが、全く前に進めなかった時期を経験した人間の所感として「簡単にさぼっていると決めつけてはいけない」という思いがある。
ずっとだらけているように映っても、きっとその人は内側で人に言えない葛藤をたくさん抱えている。
たまたま伝える術を知らないだけ、やりたいことが見つかっていないだけで、さぼっているような印象を与えてしまう人がたくさんいる。
相手の内実への想像力を失った人は「目の前にいる人の話をさえぎらず、ただ耳を傾ける」というコミュニケーションの基礎となることを忘れがちだ。
特に肉親ほど、容赦ない厳しい言葉を投げかけやすい。
言う側、言われる側のどちらの視点や気持ちもある程度わかるつもりではいるが、それでも「自分の正解が、相手にとっても絶対的な正解」と断じるのは、やはり乱暴だろう。
長年、不安で前に進めなかった人間が変容するきっかけになるのは、誰かから居丈高に発せられた言葉ではない。
「あなたが勇気を出して前に進んでくれたら、私は嬉しい」というアイメッセージの寄り添う言葉なのだ。
人は成長速度もちがえば、天命を知る時期も各々異なる。
「みんなちがってみんないい」というシンプルな言葉にこそ、実は多様性への静かな受容と慈しみが含まれている。