兄を許せた日|不良化はアダルトチルドレンのスケープゴートだった!?
最近、よく考えるのが集団における各々のポジションについて。
「人生をよりよいものにしたい」と本気で願うなら、被害者ポジションから脱する勇気が必要。
自分も被害者ポジションにい続けることがよくあったが、被害者ポジションでい続ける限り、現状打破は難しい。
疾病利得ではないが、被害者であることを手放せなくなった人間は、前に進むことを拒絶する。
僕が小学校高学年の頃に、父が亡くなった。
それから母と兄との三人での暮らしが始まる。当時、中学生だった兄はグレ始める。
怒りの持って行き場がなかったのだろう。
兄が暴れる度に、家の壁には兄が拳で作った穴が増えていった。
我が家の壁は破壊され、ボコボコになっていった。
僕には反抗期がない。
兄が先にグレてしまったので、「自分までグレてしまっては家庭がさらに壊れる」と考えたのだろう。
大好きな母親を、暴れる兄から守りたかったというのも大きい。
これも全体を考えてのポジション取りである。
アダルトチルドレンを勉強していて、興味深い気づきがあった。
アダルトチルドレンとは、機能不全家族において生み出されやすく、親がアルコール依存症などに陥っているケースも少なくない。
アダルトチルドレン6種の分類について、「心理オフィスK」さんのサイトから引用させていただこう。
僕は30代までケアテイカーとイネイブラー的な生き方をしてきた。
今は気を付けるようになったが、イネイブラー傾向が強く出ていたときは、「相手を依存させることで自分に繋ぎとめよう」というアプローチをよくしていた。
イネイブラー的なコミュニケーションは、共依存関係に陥るためだんだんと人間関係がしんどいものになり、バッドエンドを迎えることも珍しくない。
また集団の中に入った途端、気配を消しロストワンになることは、今でもある。
小学校低学年、中学年の頃は通知簿に「明るい性格」「いつも楽しそう」と書かれることがあったが、父が亡くなって以降、そういう記述はなくなった。
僕自身、その場その場で求められている役割を無意識に察知して、求められたポジションを取ることでバランサーになろという傾向が強い。
父の死後、ケアテイカー、イネイブラー、ロストワンのポジションを選ぶにようになった気がしている。
アダルトチルドレンとメサイア(救世主)コンプレックスは、相関している。
さて、思春期からグレまくった兄だが、振り返ると自らスケープゴートという立場を選んでいたように映る。
スケープゴートは、問題行動を起こすことで、家族の中で悪者や問題児の立場を獲得。家族の憎しみや怒りや不満、鬱憤を一人で引き受け、そのことにより家族のバランスを取ろうとするのだが、これは当時の僕の家での兄の役割そのものだったように思う。
「兄にはたくさん傷つけられた」と感じ、兄が加害者で自分は被害者のように位置付けていたこともあった。
しかし、あるとき荒れていた兄の視点に立って考えたときに、次のような気づきがあった。
「当時はいっぱいいっぱいで、外に当たることでしか精神のバランスを保てなかったのだろう」。
このことに気づけたときに、長年こわばっていたものがふっと緩み、兄を許せた。
憑き物が落ちたかのように、彼への恨みがすっと引いた。
今では兄と普通にLINEでやりとりをしているし贔屓にしている野球チームの勝敗など、他愛もない話題で盛り上がっている。
それにしても、加害者と被害者という解釈は難しい。
一見、攻撃しているような印象を与える加害側の立場を取る人間が、実は心の中で「誰かに助けてほしい」と叫んでいたりもする。
彼ら彼女らは、「常に強い人間でありたい」と強者の振る舞いを見せるものの、強いどころか、かなり脆弱であることも少なくない。
「弱さを見せてはいけない」「弱さを知られると自分が崩れるので、絶対に弱味を見せない」という考えが無意識の信念になっている人ほど、過剰に強さを演出する。
そのベクトルが外側に向くと、加害行為になることが多いのだ。
もちろん痛めつけられた側の傷は簡単に癒えることはないし、長期に渡って恨みや憎しみが残るという状態は、自分も嫌になるくらい経験しているので、深く深く共感できる。
荒れくるったり、攻撃せざるをえない人たちは、生きづらさを言語化できなかったり、問題を素直に開示できない、もどかしさを抱えているのだろう。
思春期に荒れた兄のことを思い出し、そんなことを思った。