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HSPやINFJが「人生に苦しみはつきもの」という大前提に立つことで「心のブレ」を減らせる理由

本屋へ出向き、売れている本のタイトルをざっと見る。

相変わらず「〇〇するだけで、あなたの××を一瞬で解決できる」など、煽情的でキャッチーなタイトルが多い。

生きづらさを感じている人ほど、こういう「〇〇するだけであなたのお悩み解決しまっせ本」を求めがちだ。

もちろんその本を読んだだけで「悩みが万事解決した」という結果は出ない。

自己啓発系の本自体、顧客の劣等感を解決するというコンプレックス産業と親和性が高いため、こういった魔法のようなタイトルを率先してつけたがるのは、しかたない面がある。

そういうタイトルの方が手に取られやすく、売れやすいのだろう。

「苦しみから逃れたい」と切望している人間ほど、ズルい人に利用される。

反対に苦しみと向き合う覚悟と体力が備わると、ズルい人を見抜けるようになる。狡猾な人間の仕掛けがわかるようになるのだ。ズルい人ほど、不安を煽ったり甘言をささやく心理的なコントロールをしたがるものだ。

生きることは苦しい。でも苦しいから楽しいし、苦しみの中に一瞬の喜びを見出したり、気づきをえることもあるだろう。

僕も日々「しんどいなあ」「しんどいことが続くなあ」と、ぼやきながら、たまに酒を飲んで酩酊することで緊張感を和らげ心身を適度にリフレッシュし、また苦しみを含んだ日常に戻っていく。

10代、20代の頃は「一切の苦しみをなくそう」「全てポジティブなものに変えなければ」と必死だった。いろいろなことに抗い、「勝ち」と「価値」にこだわり「俺がすごい人間ってことを証明しなければ!」と、肩に力が入りまくりの生き方をしていた。
こういう悲壮感あふれる強迫的な生き方は「自己受容できていない人あるある」にちがいなく、このようなタイプの人ほど加齢とともに行き詰っていく。

僕は幸いにして、ワーカホリックを経ることで「今、信じきっている、そもそもの価値観が自分の生き方に一致しているのか?」大前提を疑う機会があった。それにより少し変容できた。

資本社会につきものの対人操作に巻き込まれることなく、一歩身を引いて自己対話を重ねた。時間はかかったが、やがて他人軸の罠から抜け出て、自分軸の人生をゆっくりと歩めるようになったのだ。

葛藤や苦しみの中にこそ、気づきがある。痛みに耐えられず、そこから目を背けがちな人ほど、むやみにポジティブなことを口にしたがるのかもしれない。

仏教の中に四苦八苦という言葉があるが、苦手、苦痛、嫌いなどは常について回る。

ときには艱難辛苦に顔を歪めながら、それでもなんとか踏ん張り諦めることなく暮らしの改善を続ける。

どんな日でも、たいてい一瞬、気持ちが緩み笑えるときがある。だから「それでいいんだ」だと思える。

あなたがつらく感じる日々の中でも、必ずほっとできたり微笑んでいる瞬間があるはずだ。

余白をなくすと、大切な瞬間に気づけなくなる。

覚悟が整うと、心理的な余裕ができる。

「今日も明日も、何か嫌なことがきっとある」という前提に立つことで、苦しみが訪れても「ああ、きたな」「今日はくれくらいか」「そのうち過ぎる」と何とかやり過ごせる。

苦痛に対する解釈が変わると、受けるダメージをほんの少し軽減できる。

苦しみに対して完全に慣れることはないものの「何が起こるか?」「どの程度、つらいのか?」などはある程度、想定できるようになる。それが習慣化すれば、心のブレがやがて減っていく。

嫌なこともあるけど、面白いことも楽しいこともあるし、発見もある。新しい出会いもある。そしてその中にまた苦しみが含まれている。

きっと、そういうものなのだろう。そういうふうにできているのだろう。苦しみも喜びもセットになっているし、それらは循環の中に必ずあるものだ。

同じ一日が再現されたことなど、これまで一度もないし、毎日大変なことが起こるため、いろいろと刺激的だ。

適度な苦しみは、あなたの一日をピリッとさせるスパイスになることだってある。

もちろんあなたの人生そのものを壊しかねない苦しみとは、早急に距離を取った方がいいだろうけど。

もしかしたら、苦しみはあなたの敵ではないかもしれない。

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