いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~壺神山 零士の宇宙と清張の古代(1)
一日の始まりを時計になり代わり報せてくれる音がある。
梵鐘の響き,出漁する船のエンジンの唸り,一番列車の車輪の軋みなど,人の営みが発する音でも日常にとけこんだものは,自然が奏でる音とのさかいめが和らぐ。
生活がつくりだす音に,水路のせせらぎ,風のざわめきなどがかぶさり,里の風情などが一体となった,その土地ならではの“音風景”に耳を澄ますのも,旅のたのしみかもしれない。
現存12天守のひとつに数えられる宇和島城をいただく城下町に暮らす人々にとり,ふるさとの音風景は,標高約73mの城山からとどけられるミュージックサイレンの音色かもしれない。
朝・昼・夕・夜の4回,唱歌と民謡のメロディが流れる。
6時の目覚めは“鉄道唱歌”で出発進行し,12時の昼どきには“とんび”が天空を舞い,18時の“故郷(ふるさと)”で郷愁にかられ家路をいそぎ,団らんのひと時も21時の“宇和島さんさ”でお開きとなる。
家紋“竹に雀”,仙台にかさねた“先代”,さんさ時雨(仙台民謡)を連想させる“時雨”と,伊達家の由縁を唄う民謡“宇和島さんさ”。城下町の夜にミュージックサイレンがしっとりと消えゆく。
唱歌の“とんび”(作詞 葛原しげる,作曲 梁田貞)と“故郷”(作詞 高野辰之,作曲 岡野貞一)は,小学校の課業で唱和し,あるいは歌謡番組などで視聴する機会もあり,歌詞とメロディに心象風景を呼びおこすという方も少なくないのではなかろうか。
これに対して,“鉄道唱歌”のタイトルから,歌詞あるいはメロディを想いおこせる方はいかばかりであろうか。
鉄道唱歌およびこれに類似した作品は,1900年以降多数出版されており,それぞれ作詞者,作曲者も異にしており,紛らわしい事情があるものの,現代において“鉄道唱歌”といえば,1900年(明治33年)5月発行,作詞 大和田建樹,発行者 三木佐助“地理教育 鐵道唱歌 第一集”である。
作曲については,上眞行と多梅稚の二者競合による別異の曲が制作されたものの,大衆に支持された多梅稚のメロディが定着するという,いささか複雑な背景をもつ作品である。
6時のミュージックサイレンも,多梅稚の作曲によるメロディが流れる。
この“鉄道唱歌”をめぐる明治後半期に生じたややこしい出版事情の原因は,大和田建樹の七五調の歌詞と,多梅稚による3連符の軽快なリズム(うさぎが飛び跳ねるさまから“ピョンコ節”ともいう)のメロディに,発行者 三木佐助の販売戦略(楽団による宣伝部隊が新橋・神戸間を貸切車両で演奏旅行)が奏功して,驚異的な売れ行きを呈したことにある。
当然ながら,第2版が組まれるとともに,第一集(東海道編)に続いて,第二集(山陽・九州編),第三集(奥州・磐城編),第四集(北陸編),第五集(関西・参宮・南海編)と,鉄道の開通した路線に沿って,大和田は沿線の名所,産物,伝承,地理などをとり込み作詞に励む。
出版の翌年 1901年(明治34年)には宇和島で祝賀会が開催されたということであるから,当時の“鉄道唱歌現象”ともいうべき熱狂ぶりがうかがわれる。
国文学者,歌人,詩人,能研究者など文学面で多岐にわたり業績を残した大和田建樹は,1857年(安政4年)に宇和島藩士の子として誕生した。
藩校 明倫館で国文学,漢文などの素養を身につけ,18歳にして故郷を離れ英学の修得を目的として広島外国語学校に入学。
1879年(明治12年)23歳で上京し,更に国文学の研究に磨きをかけ,東京帝国大学古典講習科講師,東京高等師範学校(現在の筑波大学)教授などを歴任した後,公職を辞し文筆活動に専念する。
1910年(明治43年)53歳で没するまでに
空前のベストセラーとなった大和田の作詞による“鉄道唱歌”。
冒頭の“汽笛一声”は,東海道線の始発駅 新橋から西に向かって汽車が出発する光景を歌ったものであるが,“生涯にわたって,日記44冊と154冊の旅日記という膨大な記録を残している”大和田は,日記(明治30年4月6日付)の中で,宇和島を出航する際の情景描写にこの詞を添えている。
当時,鉄道が通じていなかった宇和島では,船舶の汽笛吹鳴が旅の始まりの象徴だったのかもしれない。
宇和島での鉄道開通は,1914年(大正3年)宇和島鉄道株式会社による宇和島・近永間の開業を待つことになる。
“1000編を超える”といわれる大和田の作詞による唱歌。鉄道唱歌の他にも,いまに歌い継がれている作品の代表作にスコットランド民謡のメロディにのる“故郷の空”がある。
速筆多筆を誇り“原稿製作工場”の異名をもつともいわれた大和田が,空前の販売記録を打ち立てた“唱歌”とは。
東京音楽大学教授 渡辺 裕 氏は,国歌,校歌など“コミュニティへの帰属意識や連帯意識を形作ったり維持するために皆で歌われるタイプの歌”を“コミュニティ・ソング(共同体歌)”と称え,唱歌についても“「コミュニティ・ソング」の系列の文化というコンテクストの中で,それが西洋から世界に向けて広がっていったグローバル・ヒストリーの一部をなすものとして捉えられるべき”とする。
明治維新により開国し国際社会にデビューした日本。欧米諸国にならい近代的な“国民国家”を形成するにあたり,国家に帰属するという“国民意識”の確立が緊要とされた。
“国民づくりのツール” “国民啓蒙のメディア”としての使命を帯びた唱歌。なかでも“尋常小学唱歌”などの学校唱歌にあっては,全国民が遍く歌うことを前提として
“故郷” “春の小川”など,歌詞から地名と特定の地域性が払底された作品が編纂されることとなった。
一方で,地理教育を目的とし,地名,産物などを覚えるツールとしての役割が要請された鉄道唱歌。渡辺氏曰く
大和田作詞による静岡県三島駅の歌詞(第一集 第十六番)を次のように論じる。
苦し紛れでも,詠み込もうとする努力のあとが見受けられる三島駅は,まだ幸せである。
浦和駅はあっさりと“通過”され,次の大宮駅まで進行してしまう。
さすがに気が引けたのか,あるいは浦和の関係者から抗議を受けたのかは不明であるが,大和田は次作の“第三集 北陸編”において,浦和駅 “通過” を取り止め ”停車” させる。
つづく大宮駅は
大宮駅の詠み込みに比べると,やはり浦和駅に対する“苦し紛れ”の感は否めない……。
大和田による“浦和通過”からおよそ100年後の2001年(平成13年),“浦和消滅”を危惧するひとりの浦和市民が,浦和論を弁じることになる。
浦和市民ですら歴史も名所も知らないとのたまうのであれば,宇和島出身で東京在住の大和田が,浦和を“通過”してしまうのも赦されようか。
論者の山中伊知郎 氏が地元 浦和の成り立ちに関心を払うようになった経緯は,浦和・大宮・与野 3市による合併が決定したことに始まる。(2001年5月“さいたま市”誕生。2003年4月政令指定都市へ移行)
もっとも,山中氏の一番の関心は“浦和レッドダイヤモンズ”の命運に寄せられていた。
合併問題を考えるにあたり,“あまりに自分が浦和の歴史について知らないのを感じた” 山中氏の浦和歴史探訪が始まる。
ここまでくると,大和田の“浦和通過”が,もっともなふるまいに思えてくる。
浦和の地名が世に知られるようになったのは,江戸時代に中山道の三番目の宿場町“浦和宿”が置かれてからとのこと。
ついに地元住民までが“浦和通過”を認容してしまった。
地味な浦和に “ラッキーと呼ぶしかない偶然が重なって” 県庁が置かれる。
東北線と高崎線の分岐点の街として繁栄し県庁移転を目論む大宮と,これを阻止する浦和との主導権争いは明治期にまで遡る。
地味な浦和と勢いのある大宮への世間一般の認識が,大和田の鉄道唱歌にあらわれたとも考えられる。
1927年(昭和2年)に遡り,都度消えていった合併問題。
山中氏が雑誌記事などにあたったところ,合併のそもそもの要因として“さいたま新都心”建設に行き着く。この新都心の一帯が3市にまたがっていることから,煩瑣な行政手続きを省くためにも,一つの市にまとめてしまう方が好都合と,お上が考えたとの説に行き着く。
更には浦和市関係者のコメントも飛び出す。
合併の必要性と情報開示の在り方に関する山中氏の疑問は解消されぬまま誕生した“さいたま市”。浦和市が日本地図から消滅しても,“浦和レッズ”はいまもその名を留めている。
さいたま市役所(旧浦和市役所。ただし,さいたま新都心への庁舎移転が決定)敷地内には“埼玉サッカー発祥の地”の石碑がある。同敷地は,旧埼玉県師範学校の跡地。山中氏の熱弁は驀進する。
埼玉県師範学校に蹴球部が創設される2年前の1906年(明治39年),その6年前に“浦和に浦は無い”と“通過”させた張本人たる大和田が,浦和駅最寄りの旧制埼玉県立浦和中学校(現在の県立浦和高等学校)の開校10周年記念として,同校校歌を作詞することになる。
先述の通り,渡辺氏によると,校歌も唱歌と同様に帰属意識,連帯意識を形成し維持するための“コミュニティ・ソング”である。
大和田の作詞による浦和中学校校歌は,戦後,県立浦和高等学校に引き継がれ,歌い継がれている。
山中氏が“たいしたものはないだろう,とタカをくくっていた”浦和。
旧制浦和中学校があった鹿島台と称する地域は,別所沼を望む武蔵野の閑静な高台として,戦前から文人,画家などが移り住み“芸術家村” “アトリエ村”とも呼ばれ,文教都市 浦和の名を高らしめていた。
1952年(昭和27年)“芸術家村” 浦和市生まれのミュージシャン タケカワユキヒデ氏は,1968年(昭和43年)県立浦和高校(浦高)に入学する。
10歳にして初めて作曲し,小学校6年生の時に映画“A HARD DAYS NIGHT”をみてビートルズに熱狂したという同氏も,“ほとんど習慣となったサッカーを続けていた” 少年時代を過ごしたという。山中氏のいう“伝統”がいきている。
中学生にしてバンドを結成していた同氏は,アメリカでの成功を夢見て,浦高時代に仲間と共にアクションを起こす。
大和田が託した“堅忍不抜の精神を……広き宇内に雄飛せん”を,まさに実践しようとしたわけである。
講談社現代新書“埼玉県立浦和高校”の著者でもある元外務省主任分析官の作家 佐藤 優 氏も,タケカワユキヒデ氏の後輩として1975年(昭和50年)浦高に入学。
1年生の夏季休暇を利用して40日間にも及ぶ,鉄のカーテンの向こう側,東欧・ソ連への単独旅行を決行する。
佐藤氏もまた “広き宇内に雄飛せん” を実践した一人である。
浦高時代にミュージシャンとして生きることを決意したタケカワユキヒデ氏ともども,恩師が浦高生を評していうところの “平均的エリート” の枠内にはおさまらなかったようである。
タケカワユキヒデ氏と大和田のご縁は卒業後も続く。
2010年(平成22年)に“歌詞が何と66番まであり” “同じ旋律を66回も繰り返す”あの鉄道唱歌の第一番 “汽笛一声新橋” 駅の発車ベル音のアレンジと制作を同氏が担うことになる。
鉄道唱歌(第一集から第五集)は発表された時点から,鉄道電化,路線の延長,地場産業の変遷など地域社会の移り変わりとともに,歌詞と現地の実情との間に乖離が生じる宿命にある。
大和田の歌詞は,年月を経るにつれて,地理教育のツールとしての役割を全うできなくなる。
歌い出しの新橋駅は,東海道線の始発駅の地位を,1914年(大正3年)に開業した東京駅に早々に譲ることとなる。
もっとも,多梅稚による軽快な曲は,戦前戦後の時代の変転を越えて,いまでも列車の車内放送用チャイム,駅の発車メロディとして活用され,日々の通勤通学時あるいは旅行などの折に耳にすることが可能である。
2003年(平成15年)政令指定都市移行を記念してリリースされたさいたま市の歌 “希望(ゆめ)のまち” は,タケカワユキヒデ氏の補作詞と作曲。浦和駅,大宮駅などの発車メロディとしても流れる。新たな時代にふさわしい“唱歌”のプロデューサーでもある。
大和田が“通過”した浦和駅は,南浦和・北浦和・東浦和・西浦和とそろい,武蔵浦和・中浦和を加え “浦和は7つの駅がある” とかつて話題になったが,合併直前には埼玉スタジアムへの最寄り駅 浦和美園が誕生し,“浦和”を名乗る駅はさらに勢いづく。
いま大和田建樹が鉄道唱歌の作詞を委嘱されたとしたら……(つづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?