「戦時中もトイレしてたんだよな」
当時の戦争やその戦禍が圧倒的な過去となっていた
トイレに関する追憶
「戦争中もトイレしてたんだろうな」
なんて思った自分がいた。
これは筆者が大学院生時代、広島平和記念公園にて、現地のガイドと観光客による会話を録音していた場面の追想である。
「中島地区」と生活
広島平和記念公園・平和記念資料館は広島県広島市の「(旧)中島地区」にある。公園は公園である以上、そこに今住民はいない。しかし、この地区には、原爆投下前までは多くの商店が軒を連ね、また約4400人もの人々が生活をしていたという。親が被爆者だというガイドと中島地区を歩くと、
「今でも土を掘り返したら、お茶碗とか出てくるんじゃないかな」
「ここには散髪屋があったらしいですね」
と当時の生活の様相を教えてくれる。そのような公園にある公衆トイレを目にしたとき、私はふと、
「戦争中もトイレしてたんだろうな」
と思ったものだった。
変な表現かもしれないが、現代に生きる私が中島地区の公衆トイレで用を足したように、1945年8月6日の朝にもきっと排泄が行われていたのだろう。
「だろうな」から「だよな」へ
私がこの本で思い出したのは、先の「戦争中もトイレしてたんだろうな」という調査中のふとした感想であった。無論、これは単なる私の感想に過ぎないので、事実と根拠を条件とする研究論文に取り入れることはできない。そのため、この感覚はどこか意識の彼方へ飛んで行ってしまっていたようにも思う。
ただ、この著作の中で白黒でしか表現されていなかった商店街、そしてスイカなんてものがカラー化されたことで、
「やっぱりあそこ(=中島地区)で生活してた人いたんだな」
と改めて思わされたのである。そして同時に、生活をしていたということは、
「戦時中もトイレしてたんだよな」
と当時の日常が私の前にふっと現れてきた。このときトイレの一件は「だろうな」という予測ではなく、「だよな」という実感へと変わっていった。
現地に行けなくても
今思えば、「戦争中もトイレしてたんだろうな」と感じるくらい、やはり現代に生きる私にとっては、すでに当時の戦争やその戦禍が圧倒的な過去となっていたのだろう。なんなら縄文人たちの暮らしと並列になるくらいに、「自分ごと」ではなかったのかもしれない。
私は当時の戦争を研究対象とするくらいに、それに関心を持つ人間だった。にもかかわらず、戦時中もトイレで用を足していたという至極当たり前の事実に一種の驚きを覚えたのも確かである。
私は広島の現地を訪れたことで「戦争中もトイレしてたんだろうな」と当時を今という時点で考えることができた。他方で、著者らがカラー化した写真は、「トイレしてたんだよな」「今も昔もスイカは赤かったんだな」と私の実感に色をつけてくれた。
この意味で、白黒写真のカラー化は現地を訪れることと同じくらい、もしくはそれ以上に、当時の戦争を「自分ごと」にできる力をもっているのかもしれない。
日常をみつめる難しさ
さて、色々と書いてはみたものの、この本にある写真をみつめての一番の収穫は、もう3年も私の財布に入っている折り鶴の存在を思い出したことである。これは調査中にガイドの方が私にプレゼントしてくれたものだ。
この折り鶴が私の財布にあることは、もはや当たり前の日常となっていた。偶然にもこの本と出会わなければ、もしかするとレシート一緒に誤って処分してしまう可能性すらあったような気もする。
それくらいに、他人の日常はおろか、自分の日常を意識するということさえもなかなかに難しいものだ。だとすれば、なんてことのない日々の中で、戦時下のトイレに思いを馳せるという行為もまた然りなのかもしれない。
だからこそ、当時の日常をつぶさにみつめ、それを伝えてくれたこの著作の取り組みには敬服を覚えずにはいられないのだ。
今、この折り鶴をみつめると、調査中の出会いや気づきはもちろん、コーヒーをごちそうしてもらったこと、あのベンチで食べた菓子パン、そんな何気ない小さな一コマも色鮮やかに思い出せるような気がしてきた。
ーーー
せっかくなので私の昔話を。
大学院時代、広島平和記念公園・平和記念資料館で活動するガイド(被爆2世・3世)の「語り」について調査していました。ちなみに私は修士論文に「原爆体験はいかに語り継がれるのか?ー広島平和記念公園における語りの生成と消失ー」というタイトルを。
私がわざわざ「消失」と論文のタイトルに入れたのには理由がありまして。それは、「ガイドが何を語るか?」に注目が集まりがちですが、「ガイドとはいえ、観光客相手には語れないこともあるよね」という点に着目していたからです。
立場によって発言できないこと、観光客との会話の中で言い出せなくなったり。そのようなガイドの「語らない」「語れない」部分に耳を傾けようというのが、私の院生としてのスタンスであり、信念でもありました。
それでも逆に観光客がいたからこそ生まれる「語り」があったりと、観光が持つパワーの両面性には未だに興味が尽きないのです。
もし興味があれば、こちらから論文読めますので覗いてやってください。無論長いので興味のあるところだけでも。私だけの思い出にしていてももったいないので、よろしければ↓
というわけで、素敵な一冊との出会いということで終わりにします。
庭田さん・渡邉さんに感謝を込めて、この記事を。
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