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だから、何やねん 〜ガンジス川と『朝のリレー』に寄せて〜

空は繋がっている、とあの歌は言う。
だから、何やねん。

いつの日だったか、カムチャッカの若者はきりんの夢を見ていた。そしてメキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている。
そんな彼らと小学校の教室で出会った。国語の教科書の硬い表紙の裏側に彼らは住んでいた。

当時、故郷の大阪に居た。小学生の私の空がどこかの空と繋がっているなんて露とも思わなかった。
というよりむしろ、空はもはや校区内に限られていた。あの川、あの交差点の向こうへ行ってはいけない。親も教師もそう言った。だから私の空もそこまでだった。

空は次第に広がった。交差点の向こうから来た奴らと中学校では同級生になった。高校に進むと、毎日あの川を越えて駅へ向かった。大学時代には海を向こうの国に住んでもみた。つまり、空は広がり続けた。

しかし、空の広がりは無限でもないらしい。働き始めてみると、空は反対に小さくなった。もっとも空なんて見なくもなった。あの日ニューヨークでほほえみながら寝返りを打った少女も、そして柱頭を染める朝日にウインクしたローマの少年も同じなのだろうか。

谷川俊太郎は「ぼくらは朝をリレーするのだ」と幼き私に言った。そして、それは交替で地球を守ることだという。

だとすれば、地球を守れるのは子どもや青春を生きる若者だけ。今はそんな気がしている。

もしあの歌の言う通り、空が繋がっているとすれば、朝が存在するのは朝をリレーしてくれる彼らのおかげであるということだ。さもすると、

だから、何やねん。

とは流石に思えない。それは私が子どもや若者を終えようとするにあたり、これまで国内外様々な場所で沢山の朝日を見てきたから。どの朝日もすべからく美しかった。空が繋がっているからこそ、異国の地でも朝日が見れるというわけか。

私も昔、誰かの朝を受け止めていた。
そう思える朝日を探しにこれからも旅に出よう。

以上、ガンジス川で朝日に出会った所感でした。

ーーー

カムチャッカの若者が 
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が 
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は 
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球で
いつもどこかで朝がはじまっている 
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

谷川俊太郎『朝のリレー』


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