規則正しい生活習慣は、規則正しい自分への愛である。
最近、以前よりちょっとだけ早く起きるのにハマっていて、少しずつ早起きの習慣がついている。
早起きといっても、せいぜい7〜8時くらいに起きるだけなので、普通に社会生活を送っている人に比べたら日常なのだけど、以前は平気で11時くらいまで寝ていたことを振り返ると、まあまあな進歩だろう。
朝早く起きると、自動的に夜も早く眠くなる。私は自他共に認めるロングスリーパーで、8〜9時間の睡眠は欠かせないので、夜に予定がない日は22時とか23時くらいには寝てしまうようになった。
規則正しい生活習慣を身につけつつあるなかで、気がついたことがある。それは、規則正しい生活習慣とは規則正しい自分への愛だということだ。
以前の私は眠りたいときに眠りたいだけ眠ることが、自分を大切にすることだと感じていた。けれど、毎日おおまかにでも同じくらいの時間に寝起きするほうが身体にはいいらしい。
そして、そんな規則正しい生活を送ると、悔しいくらいに心身ともに快調で、これは紛れもなく「セルフケア」なのだと感じるようになった。
昨今は空前の「ご自愛」ブームである。「〇〇を買ってご自愛しよう」だの「いつも頑張る私にちょっとご褒美」だのという広告が、ひっきりなしに流れてくるのを横目に流すようになった。
いつも忙しく頑張ってる自分を癒すのはいいのだが、そのために何か買ったり、着飾ったり、新しい場所に行ったり、たらふく食べたりすることは本当に必要なのだろうかとも思う。
それは自分の本当に大切な部分を、心を経済に取り込まれてしまうようで、なんだか居心地が悪い。
そもそも、私は愛とは規則正しく注がれるべきものだと考えている。何を頑張ったからご褒美をあげるとか、逆に頑張れなかったら愛を与えないというのは、愛という言葉をエサにしたコントロールに見えて仕方がない。
条件付きで与えられる愛は人を不安定にする。いつ与えられるか不安になって、過剰にそれを求めるようになる。
状況に関わらず、等しく自らから自らへ与えられつづけるものこそが本来の「ご自愛」なのではないだろうか。
翻って、私が規則正しい生活習慣が規則正しい自分への愛だというのは、自分の心と身体の声に耳を傾けながら、なるべく健康でいられるように努めることが、私が理想としている愛の形にかなり近いような気がするからだ。
そう考えると、自宅の掃除をするとか、洗濯をするとか、栄養のある食事をするとか、寒かったら靴下を履くとか、喉が渇いたら水を飲むというのも、れっきとしたご自愛だろう。
平坦なように見える生活のなかで、注意深く「心のひだ」を見つけて、よく観察することから、セルフケアは始まるように感じる。
もちろん、ご自愛ブームを否定するつもりはない。これまで自分を愛することや、自分の心と身体の声を聞くのを忘れてしまっていた人が、自分の心地よさに気がつくきっかけとなるなら、とても素晴らしいことだと思う。
しかし一方で、自分の心が経済に取り込まれていないか、自分の欲望が誰かに引き寄せられたものではないか、自分への愛が条件付きになっていないかということは、常に考慮しなければならない点だと思うのだ。