私が「選択的夫婦別姓」の導入に賛成する理由
3月8日は国際女性デーだった。国際女性デーはアメリカで女性の参政権を求めるデモが起きたことをきっかけに、1975年に国連が制定した記念日だ。
近年、欧米はもちろんアジア諸国の政治行政関係者と会談する際も、日本側の顔ぶれが男性ばかりで恥ずかしい思いをすることが多くなった。特に民主主義を体現するべき政治の世界に女性を迎え入れる努力が全く足りていないと思う。
3月8日、国会内でNPOが選択的夫婦別姓に関する会合を開いていた。別姓が認められていないことが女性差別だとまで言うつもりはないが、通称としてだけではなく戸籍上も別姓を名乗りたいと考えている女性を生きにくくしている面があるだろう。日程の都合で会合に出席できなかったが、この機会に選択的夫婦別姓に対する私の考え方を整理しておきたい。
『自由論』著者であるJ.S.ミルが提示した「危害原理」
選択的夫婦別姓で問われているのは「自分自身は同姓が良いか、別姓が良いか」ではない。「赤の他人が夫婦別姓を選択することを認めるかどうか」だ。私個人は同姓の方が家族の一体感があり望ましいという考えを持ついわゆる同姓派だ。
『自由論』を書いた19世紀の哲学者であるJ.S.ミルは「危害原理」を提示している。他者に危害を加えない限り、人々は自由であるという考え方だ。私はここに自由主義の根本原理を見る。赤の他人が別姓を選択することが、他の家庭に危害や迷惑を及ぼすのだろうか。自由主義者であれば、別姓にしたいと考えている家庭に対して「同姓にすべきだ」と考えを押し付けるべきではない。
外国人とのカップルにはすでに夫婦別姓が認められている
結婚制度における夫婦同姓には重大な例外がある。国際結婚だ。夫婦が同姓となる最大の理由は、同姓のみ認められている戸籍にある。戦後に旧来の家制度は否定されたが、戸籍制度は今も続いている。「家破れて氏あり」という言葉の通り、戸籍制度が家制度の名残となってきた。
外国人は戸籍に入らないため、国際結婚の場合には夫婦別姓となるのが一般的だ。仮にわが国において「夫婦は同姓を名乗るべきだ」という考えを貫徹するのであれば、外国人にも同姓を強制するしかないが、現代においてそんなことを主張する人はいないだろう。すでに20組に1組は国際結婚となっており、夫婦同姓には巨大な穴が空いているのだ。
戸籍制度の歴史はそれほど長くない。明治時代に入り庶民が苗字を名乗ることになった後も夫婦は別姓とされた。夫婦同姓となったのは戸籍制度の始まった明治31年だ。戸籍制度は100年程度の歴史を持つにすぎない。保守とは「改革をする場合は漸進主義に基づいてやる」ことであって改革しないことではない。選択的夫婦別姓と併せて戸籍制度のあり方も議論すべき時がきている。
当事者である若者はどう考えているか
内閣府が令和3年度に実施した「家族の法制に関する世論調査」には、選択的夫婦別姓制度に関する質問項目がある 。アンケートへの回答者が「夫婦は同姓が良いか、別姓が良いか」という誤った認識で回答している可能性もあるが、年齢、性別による傾向を把握することはできる。
結婚という選択の当事者を18~49歳と仮定すると、男女全体において選択的夫婦別姓の導入への賛成は約40%。70歳以上では賛成が約15%に留まっており、若い世代との差は明確だ。また、18~49歳の男性の賛成は約32%であるのに対し、18~49歳の女性では約45%が賛成と回答している。結婚した場合、現状においては男性よりも女性の方が姓を変更するケースが圧倒的に多いことも関係しているだろう。
令和4年11月22日に公表された日経新聞のアンケート結果は衝撃的だった。「結婚はした方が良いと思う」と答えた20代、30代の女性は僅か40%。若者の中で結婚という選択そのものが少数派になっているのだ。出生率の高いフランス、スウェーデン、デンマークなどの欧州の先進国では婚外子が5割超なのに対して日本は2%に留まっている。この問題は改めて考える必要があるが、日本の現状においては結婚が増えない限り少子化は加速する。このままではこの国は亡ぶ。
別姓が認められていないことを理由に結婚しない若者が現実にどれくらいいるかは明確ではないが、同姓になることが結婚の一定のハードルになっている面はあるだろう。私の周りには、すでに結婚して通称として旧姓を使用している女性で「選択的夫婦別姓が導入されれば旧姓に戻りたい」という人がいる。旧姓に戻す選択を遡及的に認めるか否かについては、法的安定性に関する議論を別途行う必要があるが、私はこの問題については当事者の声に耳を傾けるべきだと思う。
生まれてくる子どもの立場で姓を考える
国会にはこれまで野党から何度も民法改正案が提出されてきた。私自身もそうした政党に所属してきたが、現実的に導入するとなると問題点が1つあることを指摘しておきたい。
野党案では、別姓を選択した夫婦の子どもについては生まれる度に1人ずつ姓を決めることとなっている。親が「長子は父の姓、次子は母の姓」と決めた場合、兄弟姉妹は異なる姓を名乗ることになる。子どもは自分の姓を選べるわけではない。極端な場合、5人兄弟のうち1人だけに別の姓が与えられるようなケースもありうる。法案では子どもは家庭裁判所への届け出により自らの姓を変更できるとされているが、両親の選択に反し家庭裁判所に届け出るハードルは高いと考えるべきだろう。子どもの立場に立つと、あらかじめ兄弟姉妹の姓を統一しておいた方が、自らの姓を受け入れやすくなるのではないか。
法制審議会はすでに平成8年(何と27年も前!)に答申を出し、選択的夫婦別姓を認める考えを示している。戸籍そのものを残しながら、1つの戸籍に2つの姓を記載することを認める改革案で、子どもの姓は結婚時にあらかじめ1つに定めることとされている。野党案より法政審議会の改革案の方が現実的だろう。
議論を尽くした上で、立法府として結論を
法制審議会が答申を出してから27年以上の月日が経過した。夫婦別姓の実現を望む人たちからしたら、この時間はあまりに長すぎる。もう一度強調したいのは、議論すべきは「別姓が良いか悪いか」ではない。「赤の他人が別姓を選択することを認める(関与しない)かどうか」の問題だ。
ここまで結論が先延ばしされてきた経過を見ると、もう一歩踏み込んで、反対する国民の理解を得る努力も必要かもしれない。例えば、夫婦同姓を原則としつつ夫婦間で結婚後の姓を決められない場合にのみ別姓を認めるドイツの制度などは参考になりうる。
ダイバーシティは社会の活力
LGBT当事者の権利にも長年取り組んできたが、いまだに法制定に至っていない。総理秘書官の発言をきっかけにLGBTの差別についてツイートしたところ大炎上した。公衆浴場など公的スペースにおける性自任に関する懸念を払しょくする努力は必要だ。
選択的夫婦別姓とLGBTに共通している課題は「多様性」と「寛容性」だ。日本社会が元々持っていた寛容性を取り戻し、家族のあり方や他人の性的指向・性自認を認めることができる社会にしたいと思う。
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