『首』、北野武映画というイベントとして楽しんだ!
眠くならずに見られた。飽きなかった。じゃあ面白かったのかというと、手放しで大絶賛!って感じでもない。ただ、つまらなかったわけでもない。
ちゃんと楽しんだ。
そう、ちゃんと楽しめるのだ。普通に。ちゃんと楽しめる。楽しかった。
まず、壮大にネタバレすると、殿が殿なので笑ってしまう。これはどういう意味かと言うと、かつてたけし軍団や取り巻きから「殿」と呼ばれたビートたけしが、正真正銘の「殿」秀吉を演じているのだが、その芝居がまるで自らのセルフパロディーなのだ。
松村邦洋さんがやる物真似のビートたけしを、本人が演じている感覚なのだ。
これが面白いと言えば面白い。
だけど、時代劇的にはノイズでしかなく、興を削がれる。
出演者はみんなが知ってる有名俳優が多く、役を演じている人の情報を忘れさせてくれない。「ああ、小林薫さんいい芝居してるなあ」「中村獅童ってこういう役が多いイメージあるなあ」「キムキム兄やん超重要な役なんだな」みたいな。
反対に、いいドラマは役者が誰なのか、なんて事は忘れさせてくれるものだ。そういう意味で、没頭させてくれない。
常に演じている役者のフルネームが頭に浮かぶ鑑賞になる。これは、お遊戯会を見にきた親の気持ちに近い。芝居がどうこうより、「あっ、劇団ひとり出てきた」「荒川良々じゃん!」「柴田理恵、ウケるー!」みたいな事だ。
だから、飽きずに見続けられる。
誰にも感情移入できないけど、北野武映画というイベントとして楽しめた。
加瀬亮の信長が弱そうで、もうちょっと威厳が欲しい。というか、みんなして「軽い」。
人の命というものがとにかく「軽い」。
これには考えさせられるものがある。人の生とは一体何なのか。これを現代の天下人、北野武(76)が描く理由はなんだろうか。
たけしさんは人の何倍も濃い人生を送ってきている。権力も、名誉も、金も女も、なにもかも手にしたと言っていい。
足立区から出てきた出世物語は、秀吉に通じるものがある。そう思うと、劇中、妙に符合する台詞があった。
加瀬亮信長が、「遊びだ」という台詞を口にする。今になって振り返ると、それは天下人たけしの本音のように思えてくる。
みんな死ぬ。簡単に死ぬ。あっさり死ぬ。そして、簡単に殺せる。浮き世は遊びなのだ。そういう世界の中で、狡猾に、したたかに、生き抜くしかない。
ただ、それでもいずれ家康にやられるのだ。
そんな小林薫家康パートには出色のシーンがある。何度も何度も影武者が殺されるのだ。これには笑ってしまう。実に不謹慎な笑いだ。
ここまで慎重な家康だからこそ、生き残るのだ。
秀吉といえど、いずれは敗れる。
裏切り、裏切られ。
自分の名を冠したタレント事務所だったのに、内部から崩壊して自分が辞めることになってしまったビートたけし。やはり自分は家康ではないと感じたのだろうか。
劇中、常に関西弁を貫く木村祐一を、私は松本人志だと思った。お前らのすべらない話って、所詮こういう事だろ。
ビートたけしはそう言っているのだ。