【日本神話⑯】邪馬台国ここ?吉野ケ里(下)
魏志・倭人伝には「その国はもともと男の王が7、80年治めた。倭国が乱れ、たがいに長年争っていたので、共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名前である。鬼道(呪術、占い)を使い人をまどわせる」とあります。この一文から、女王・卑弥呼は女性呪術師・シャーマン的な祭祀王だったことが想像されます。
王と高官の高級住宅地「南内郭」
前回からの吉野ケ里遺跡の続きです。吉野ケ里遺跡は「南のムラ」「倉と市」「南内郭」「中のムラ」「北内郭」「北墳丘墓」「祭壇」などとエリアが分かれています。このうち、南内郭と北内郭は住居と望楼建物(物見櫓)を数基備えて周囲をぐるっと城柵で囲んでいます。その南内郭へ
南内郭はもしかしたら、魏志・倭人で邪馬台国から魏に派遣された難升米や、官職名で紹介される伊支馬や次席の弥馬升を務めた人らが住んでいたエリアかもしれませんね。
南内郭に「王の家」と名付けられた家がありました。これまで見た一般的な竪穴住居に比べて、圧倒的に大きく広いわけではありませんでした。ただ、中にある品々は「王の権威を示す」と説明板に書いてありました。実際にここが王の家であったかは不明ですが、そういう演出で展示してくれています。卑弥呼のような神聖な祭司王に対して、こちらは世俗の政治・軍事の筆頭官僚・大宰相といった感じでもいいかもしれません。
王の家の近くには「大人(高官)の家」がありました。説明版に「軍事と土木工事を仕切る大人と家族の家。道具の出来を見ている」とありました。すぐ隣には「大人の妻の家」もありました。寝泊りは別々なのか?それとも仕事と家庭の場を分けていたのでしょうか?
煮炊き場は各家にはなく、南内郭の屋外に専用の場所として復元されていました。「大人や王の食事はここでまとめて作って、各家へ運ばれた」と説明板に書いてありました。
望楼建物も複数あり、ここが重要な場所であることや、郭の防御力の高さを示しています。けっこう高いですね。大きな木をこれだけの数建てていることからも、人口の多さや国力の高さを感じさせてくれました。
祭祀王の住む最重要エリア「北内郭」
卑弥呼のいた場所について魏志・倭人伝は「宮室、楼観(楼閣)、城柵を厳かに設け、常に兵がいて武器を持って守っている」とあります。この風景は正にそれを表しているかと思われます。相当に守りの固い場所で、高官や神祇官など特別な人しか入れなかったのではないかと思います。
王や高官がいた「南内郭」よりは狭いですが、望楼建物が周囲ににらみをきかせ、内部には主祭殿を中心に高床倉庫、住居が並んでいました。
魏志・倭人伝には「女王・卑弥呼は年齢はすでに長大だが夫婿はなく、男の弟が補佐して国を治めていた。王となってから、その姿を見る者は少なく、仕える者は1000人いた。ただ男子一人(弟)が飲食物を運び、辞を伝え、居室に出入りしていた」とあります。
この建物の内装は、こうした記述を基にした想像の復元かと思いますが、主祭殿との位置関係などから、想像は当たっているのではないかとも思います。居室も布や壁で部屋を仕切るなど、秘匿性の高い設計ですね。全く外に出ないということはなかったでしょうが、ずっと居るには大変そうな真っ暗な部屋です。
そして、中近世の城でいうところの天守に相当する高さ16.5mの「主祭殿」がこの遺跡のメインでしょう。日本の城の原型です。16本の柱で二層の大型高床建築物を支えます。圧倒的に大きく、政治会議や宗教儀式が行われていたと思われます。
階段を上がって一層目。人形を使って政治会議の様子を復元していました。最高司祭者の占い結果や助言をもとに、内政官、外務官、軍務官、農業官、外国の使節らといった人々が国の将来を話し合っていたと思われます。中央に座する議長役は卑弥呼の弟でしょうか?それとも大宰相は別にいたのでしょうか?
最上階は宗教儀式の場として復元されていました。魏志・倭人伝には「事業や仕事を始める時や、往来などの時には骨を焼き、火の裂け目を見て兆候を占い」とあります。ここで火を扱ったかは分かりませんが、それとはまた別に、最高司祭者がこうした神棚のような祭壇を設け、例えば祖先崇拝や鎮魂、五穀豊穣や天下泰平を祈願したり、外交の成功や戦争の勝利を祈ったのかもしれませんね。とても分かりやすい展示でした。
王たちの北墳丘墓
主祭殿から北へ目をやると、墓地エリアが見えました。奥には祀堂があり、御柱のような1本柱が建てられ、さらに奥に四角く盛り土した墳丘墓が見えました。
主祭殿を出て墳丘墓までの間は、甕棺墓を埋めた穴が複数発掘されていました。火葬はせず陶器の甕棺に遺体を入れたようです。これは北部九州独自の埋葬方法だそうです。魏志・倭人伝には「人が死ぬと棺はあるが外箱はなく、土を封じて塚を作る」とあります。甕棺はあっても、それらを囲む木材や石材らしきものはないと言っています。これは重要な一文だと思いますけどね。
人骨からは渡来系の特徴がよく見られ、顔は面長で背も高めな人が多かったようです。中には首のない遺体や刃傷、矢傷を受けた遺体もあり、戦死者か刑死した者ではないかとのことでした。墓は200年間使われ、1万5000基を超える数が想定されるそうです。かつて王や高官は一般の人と区別なく同じ場所に埋められたようですが、副葬品や甕棺の大きさなどから身分の違いが推測できるそうです。
卑弥呼の墓に関する魏志・倭人伝の記述は「卑弥呼が死んだ。大きな塚を作った。直径百余歩。殉死する者は奴卑百余人。その後、男王を立てたが国中が服さない。お互いに誅殺し合い千余人を殺した。卑弥呼の親族に当たる13歳の壱与(台与)を王に立てると国中が平定した。壱与は魏の都(洛陽)へ朝貢した」そうです。卑弥呼の墓は大きなものだったことを物語る記述です。では、ここは?
北墳丘墓は歴代の王墓と解釈されています。弥生時代中期前半~中頃(紀元前3世紀~前1世紀)にかけてつくられ、南北約40m、東西約27m、高さは4.5m以上の長方形。甕棺墓は14基見つかり、勾玉や銅剣などの副葬品が見つかっています。ただ、その後は墓として使われなくなったようです。それでも、祖先王の霊に対する祀堂での儀式が行われたり、住民が「お墓参り」に訪れたりしたようです。
九州説の結論・・・惜しい・・・
最後の決め手といってもいい「大きな塚」は、卑弥呼のためだけのものではなく、歴代王の集合墓でした。時代も卑弥呼の紀元3世紀とはズレがあるようですね。魏より授かった「親魏倭王」の金印も見つかっておらず、現状、吉野ケ里遺跡のエリア内には、卑弥呼の墓に相当するものはありません。これだけ魏志・倭人伝の記述と合致した発掘成果があるにも関わらず、非常に惜しいですね。反対に「なぜ墓だけないのか?」となります。
個人的には、ここでいいと思います(笑)。隣接する地域も「山門郡(神功皇后の伝説が由来)」ですしね。卑弥呼の墓は遺跡外の古墳などに期待したいところでしょうか?長田大塚古墳は「卑弥呼の墓」と地元で伝承されているようですよ。
しかし、魏志・倭人伝の邪馬台国への行き方によれば、不彌國から南へ水行二十日で投馬國。そこから南へ水行十日、陸行一月ですから、福岡県内と思われる不彌國から佐賀県の吉野ケ里遺跡は歩いても川を船で行っても1、2日で行ける距離です。記述を誤るほどでしょうか?「九州説」では伊都國を起点に放射線状に不彌國はどれだけ、伊都国から投馬國へは・・・、伊都國から邪馬台国には・・・、という説もあるそうです。
また「女王国より北に一大卒(監督官)を置いて伊都國に常駐している」なら、伊都国の南、吉野ケ里遺跡はその位置にあります。
う~ん・・・発掘されていないだけで、他に吉野ケ里に匹敵する遺跡はいくつもあるものなのでしょうか?ある程度の国力があれば、この規模は珍しくないのでしょうか?福岡県朝倉市の平塚川添遺跡は全域を発掘出来たら、吉野ケ里以上の広さともいわれているそうですが・・・吉野ヶ里遺跡の手前のそこが投馬國?
しかし、吉野ケ里遺跡が邪馬台国ではなかったとしても、その規模と国力はそれと同格ということは間違いなさそうですね。「畿内説」の有力候補地である奈良県の纒向遺跡が仮に邪馬台国だとしたら、それに匹敵する強国がここあったわけですし。初期大和王権が吉野ケ里を従わせるのは簡単じゃないですな。
いずれにしろ、見事な遺跡でした。日本百名城にも選ばれた日本の城の原型、堪能させてもらいました。発掘と復元、保存に尽力されている方々に感謝です。
吉野ケ里遺跡↓
表紙の写真=主祭殿を囲む北内郭の城柵