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【日本神話⑮】邪馬台国への道~對馬國

 日本神話に寄れば、初代・神武天皇が即位したのが紀元前660年とのこと。続いて実在不明の謎の2~9代の天皇を経て、10代・崇神天皇が即位したとのことです。崇神天皇は実在した可能性が高いそうですが、西暦にして何年頃かは諸説あります。記紀の記述に沿った年代とはズレてしまいますが、紀元3世紀に大和国の三輪山麓に広がる巻向まきむくを都にした天皇=大王おおきみという説が有力視されています。

 地面を掘って出て来た遺構や遺物研究に基づく考古学の観点では、都市遺構と巨大古墳などから、この時期に巻向を中心とした王権が存在していたのは事実と考えてよさそうです。一方、当時の人が記録した文献史料の観点では、中国の歴史書「魏志・倭人伝」に「邪馬台国の女王・卑弥呼」の記述があり、紀元238年に卑弥呼が魏の皇帝に朝献した後、「親魏倭王」の称号を示す金印が送られました。

 考古学的な証拠と文献的な証拠が一致すれば、ほぼ間違いないとみていいのですが、そうは問屋が卸さないのが「邪馬台国論争」の難しいところです。私が説明するまでもなく、邪馬台国の位置については「北九州説」と「畿内説」を双璧に、21世紀の現在も結論づいていません。素人玄人問わず、色々な方が研究考察されていますが、どちらも説得力があるし、決定打に欠けるともいえる状態。私の「歴史旅」でも、その地をすでに踏んでいるのかいないのか分かりません。

 ですから、ここは「魏志・倭人伝」の記述に沿いながら、その候補地の現在の様子を旅していきたいと思います。私が支持する説は・・・というのも排除して、各説と等距離を保って、お写真と旅日記を紹介します。記紀とは離れた寄り道日記ですね。

大陸より海渡ること対馬

長崎県対馬市の北岸「韓国展望所」から朝鮮半島方面を眺める(2014年6月9日撮影)

 魏志・倭人伝には「倭人は帯方(韓国ソウル市付近)の東南大海の中に住み、山島によってクニやムラを作っており、百余国。(魏より昔の)漢の時に朝献する者があり、使者や通訳の通ずる所は今は三十国。帯方郡から倭へ行くには海岸沿いに韓国(馬韓)を経て、狗邪韓国くやかんこく(=加羅、金海=朝鮮半島南部の古代日本領)まで七千余里。海を渡ること千余里で對馬国に着く」とあります。

対馬南岸の厳原港。海の向こうは九州(同日撮影)

 と、朝鮮半島から海を渡って對馬=対馬の記述が出てきました。疑いなく現在の対馬でしょう。対馬に関する記録は「大官を卑狗ひこといい、副官を卑奴母離ひなもりという。絶縁の島で四方は四百里ばかり。土地は山が険しく森林が多く、道路は鳥か鹿の道のよう。千余戸ある」と書いてあります。

 これは納得ですね。実際に訪れると、長細い対馬は急峻な山の馬の背のような印象で、沿岸部はリアス式海岸のよう。現在は立派な道路や橋が整備されていますが、それがなければ南岸から北岸まで縦断するのに、坂を上ったり下りたり、道もグルグル、クネクネと大変でしょう。車のない時代だったら島内山中の道を行くより、船で沿岸部を回った方が速そうな印象でした。

上下とも対馬市の海神神社(同日撮影)

 さらに倭人伝には「対馬に良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどしている」とあります。

 これにも納得です。田畑が全くないというわけではないと思いますが、確かに土地柄、田園地帯といえるほどの場所は少ないと思います。各地への移動中もずっと山道を車で走っていた記憶があります。

 一方で、海や漁業にまつわる宗教的な施設は多くありました。以前に紹介したウミサチ・ヤマサチ伝説&浦島太郎の竜宮城伝説ゆかりの海の神様を祀る「和多都美わたづみ神社」もしかり。対馬国一之宮でもある「海神かいじん神社」は、皇族のヤマサチヒコの妻になった豊玉姫を祀る神社です。

石積みの「藻小屋」(同日撮影)
石を積み上げた「ヤクマの塔」(同日撮影)

 その海神神社の近く、上の写真の「藻小屋」については、晩春に船に付着した藻や陸に漂着した藻を集めて保管する場所だそうです。船小屋でもあります。藻は畑の肥料として使い、土壌改良する習慣があるのだそうですよ。

 下の写真の「ヤクマの塔」は、旧暦6月初午の日に浜辺で石を積み上げて塔を作り、大麦小麦にお酒などを供えて礼拝する「ヤクマ祭」を執り行っているそうです。無病息災や大漁を祈願するそうで、対馬の木坂地区と青海地区で行われているそうです。ヤクマ祭は夏の畑物の収穫祭と、天童(日の神)信仰が合祀されたものといわれているそうです。

 これをもって、日本神話や神道と強引に結び付けていいものかは分かりませんし、全国の「漁師町」には似たような習慣があるとも思いますが、昔も今も「対馬は海の者たちの国」という点は間違いないでしょうね。そして、太陽神を祀る習慣もあるようですね。お隣の壱岐が「月読の島」であることは以前に紹介しました。太陽と月の2島のコンビがいい感じですね。そして、弥生時代の「貨幣」でもあり財産でもある「稲」を持たざる者たちということは、自然と物々交換と海運貿易をする「外へ出る者たち」の国でもありますね。大陸との橋渡し地帯でもあり、絶海の人たちですから、古来より操船技術は高かったと想像できます。

和多都美神社。背後の山が海の神・大綿津見神の墓といわれている(同日撮影)

 実際の旅では時間が足りずに、弥生時代の遺跡や古墳など細かな場所までは訪問できませんでした。あえて「古墳」というのなら、和多都美神社の背後の山が、豊玉姫の父である海の神の「古墳」という伝承があるのですがね。倭人伝にある「対馬の長=ヒコの墓」のひとつなのでしょうか?・・・次回はお隣、壱岐へ。

対馬の海神神社↓

表紙の写真=対馬北岸の韓国展望所からの眺望(2014年6月9日撮影)


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