【日本神話⑬】神武東征 古道と滝と
神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ=後の神武天皇)が歩いた熊野から大和への道中かは不明ですが、日本神話の流れは置いておいて、前回の熊野速玉大社に続いて、今回は熊野那智大社を紹介します。
熊野那智大社の参詣曼荼羅では、「那智の浜」についた船から浜の宮の鳥居をくぐり、補陀洛山寺が描かれています。那智川を遡って山中へ道が続き、上部に熊野那智大社と那智山青岸渡寺。仏塔や那智の滝もありますね。原作的なものでは、平安の女性歌人・和泉式部も描かれているそうです。
熊野古道を行く
「熊野詣」といえば「熊野古道」は外せません。寺社と並び、世界遺産を構成するひとつでもあります。道は一本だけでなく、伊勢方面、大阪方面、大和方面をはじめ、海から各社へ続く道、各社同士を結ぶ道、高野山へ抜ける道など、網目のように紀伊山地を走っています。
熊野詣は平安時代から盛んに行われていたそうで、神道と仏教を習合した神仏習合思想も相まって、特に那智大社周辺は仏教寺院が伽藍を形成し、修験道、修行の霊場として発展しました。修行僧や一般庶民に限らず、天皇や公家も盛んに訪れました。踊念仏の一遍上人はここの熊野権現の神託を得て時宗を開いたそうです。極楽浄土への道や神様の御利益を得ようと、大勢の人たちが熊野の参道を列になって歩く様子は「蟻の熊野詣」といわれて記録されています。
神仏習合・分離の熊野那智大社と那智山青岸渡寺
熊野那智大社境内には那智山・青岸渡寺があります。これまで述べたように、神仏習合思想の影響です。明治の神仏分離令で神社と仏教寺院とに分かれました。けっこうな山間部だと思いますが、今も立派なお堂や社が沢山並び、規模の大きさを物語っていますね。
神仏分離令では、熊野速玉大社と本宮大社の仏堂は破却されてしまったそうですが、ここは残りました。写真に見える通り、本尊は如意輪観音菩薩。仁徳天皇の時代(4世紀頃?)に、インドから来た僧侶・裸形上人により、那智の滝で見つかった仏像を安置したのが始まりといわれています。その後、推古天皇の時代(6世紀から7世紀)にお堂などの施設が整ったそうです。
お寺に隣接して、熊野那智大社の拝殿などがありました。熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)を主祭神とし、夫神に当たる熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)と、家津美御子大神(ケツミミコオオカミ=スサノオノミコトと同神)の熊野三神を祀っています。
余談ですが、この拝殿でお参りを済ませたら、若い旦那さんに奥様とお子さんとの家族写真撮影を頼まれました。ところが「このカメラ位置から社殿をこう入れて、この画角で撮ってください」と、細かに指示されましたよ。よほど写真にこだわりがあるのか、自分の腕に自信があるから他人に任せたくないのか・・・笑・・・残念写真を避けたい気持ちも分かりますが、注文多くて苦笑いでした・・・。
仏塔と奥に見える那智の滝の写真は、熊野大社の定番ですね。仏塔は中に入って上層へ上ることもできます。本来は仏塔は展望台ではないのですが、ここはそういった機能も持たせているようです。お釈迦様の骨「仏舎利」もあったと思います。
那智の滝と飛瀧神社
那智大社の拝殿から那智の滝へは、参道を下っていきます。その道中、貸衣装に身を包んだ家族連れの参拝客に出会いました。けっこう絵になる風景だったので、ご家族の許可を得て撮影させてもらいました。さすがにネットに出すので顔は隠しておきます。今(2024年)の感覚だと、撮影許可はもらえないかもしれませんね。
那智の滝を眺める場所に鳥居や建物があります。飛瀧神社といい、滝そのものを御神体として祀っています。けっこう水しぶきがあって薄く霧がかってました。滝は周辺の山中に大小48滝あるそうです。那智の滝は「一の瀧」とも称し、高さ133m、幅13m、瀧壺の深さは10mあり、落下する水量は毎秒約1トンとのことです。
那智の滝の上流には、鎌倉時代の僧・文覚(もんがく)上人が滝修業をした「文覚の滝」があるそうです。この僧侶、逸話がけっこう面白くて、三谷幸喜氏の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ボロボロの服装で「源義朝の髑髏」を持って頼朝の前に現れ、平家追討を促す「怪しげな人物」として描かれていました。史実では、伊豆に流されていた時に若き頼朝と知り合い、空海の開いた京都・高雄山の神護寺や東寺を再建したりしています。歴史の教科書で見たこともある有名な「源頼朝像」の絵が神護寺の所有だったのは、この逸話からでしょうか。
というわけで、熊野那智大社は神社あり寺あり滝あり古道ありと盛りだくさんでしたね。前回の熊野速玉大社に続き、那智大社もお参り完了です。次回は最後の本宮大社に行きたいと思います。
熊野那智大社↓
表紙の写真=熊野古道(2014年5月4日撮影)
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