【日本神話⑯】邪馬台国ここ?吉野ケ里(上)
魏志・倭人伝に曰く、朝鮮半島の狗邪韓國から海を経て對馬國(長崎県対馬市)→一岐国(同壱岐市)→末盧國(同松浦市)→伊都國(福岡県糸島市)→奴國(同春日市、福岡市)→不彌國(同宇美町?同福津市福間?)まで来たところで、南の投馬國(場所不明?)まで水行二十日。そして、南の邪馬台(壱?)国まで水行十日、陸行一月。女王の都するところで、官は伊支馬、つぎを弥馬升、つぎを弥馬護支、つぎに奴佳革是(革と是はへん、つくりで一字)という。・・・だそうです。
現在の福岡県近郊から船で20日間かけ、陸で一か月かかるのだとすると、日本列島でかなりの距離を行くことになります。江戸~京都・大坂で東海道か中山道の宿場をゆっくり歩いてそのぐらい?「南へ」という方角も「一月」という日数も不可思議ですね。日数は、移動日数ではなく、実際に行くまでにかかった合計日数では?と素人ながら思ったり。途中の国で歓待を受けたり、天候で足止めくらったりして、結果的にこのぐらいかかって邪馬台国についたとか?でも魏志・倭人伝は個人の日記ではないですよね・・・
文献史料を眺めても永遠に謎は解けそうもありません。魏志・倭人伝に誤りがあることは確か。色々な人の説を読んで感じたのは、畿内か九州か四国か山陰か・・・誰かの推測・説は正しそうだということ・・・誰も証明できていないので誰のが正解かは分かりませんが・・・笑
北部九州の有力地 吉野ケ里遺跡
考古学の分野に目を移し、現状の発掘成果で最も有力な場所はどこか?佐賀県の吉野ケ里遺跡と奈良県の纒向遺跡でしょうね。まず、吉野ケ里遺跡へ行ってみましょう。私はこれまで2回行きました。発掘調査がされ公園として開放されている部分だけで、かなり広いです。魏志・倭人伝で紹介された記述と比較しながら、遺跡の写真を交えつつ紹介します。
まず、国々の連合体であったうちの中心国である邪馬台国の「国」という範囲が、どこまでの土地をいうのかは難しいところですが、女王・卑弥呼の居住区を中心とした周囲一帯を「都」として、そこは環濠集落となっていたようです。つまり天然の川を利用したり、土を掘り下げて堀をつくり、全体を柵で囲みます。
環濠集落の入り口には、鳥の木造を乗せた門があり、環濠には先を鋭く削った逆茂木が何本も刺さっています。今更いうまでもないですが、稲作や鉄器生産などの「富と財産」が生まれると、それを奪おうとする「敵」も現れます。弥生時代になって戦争は以前より大規模化しており、集落は「城」の構えとなりました。
倭人の暮らし~刺青に裸足 、食事は手づかみ
一般的な住居のデザインは、都も地方も大差はなさそうです。内部も見なくても想像できると思います。「THE 弥生時代」っていう風景ですね。
倭の人々の暮らしについても魏志・倭人伝に詳しく記述されています。「倭人は顔や体に刺青をしている。諸国の刺青はそれぞれ異なり、身分でも差がある。風俗は淫らではなく、男性は髷をし、木綿の布を頭につけている。衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけであり、ほとんど縫いつけていない。女性の髪は結髪のたぐいで、衣服は単衣のようなものを作り、その中央に穴をあけて頭を突っ込んで着ている。倭は温暖で夏でも冬でも生野菜を食べる。みな裸足。家屋があり父母兄弟は寝たり休んだりするところを異にする。朱丹を身体に塗っており、中国で粉を用いるようなものだ。食事中は高坏を用い、手で食べる」とあります。
弥生人男性の髷は諸説あるようです。顔の両側面で八の字のように結うのか、頭頂部や後頭部で縛るのか?衣服はポンチョみたいな感じで布全体をかぶり、必要なところを紐で縛っているようですね。靴も箸もまだないんですね。
倭人の家族~一夫多妻、訴訟少なく
「集落の会同(集会)や起坐(座り方、座る場所)に父子男女の差別はない。みんな酒好きである。年長者に対しては手を打って跪拝(ひざまづき拝する)の代わりにする。その人は長生きで100歳、あるいは90か80歳。風習として大人(身分の高い人)は4、5人の妻を持つ。下戸(身分の低い人)でも2、3人の妻がいる。婦人は淫せず、やきもちをやかず、盗みかすめず、訴え事は少ない。法を犯すと、罪の軽いものは妻子を没収し、重いものは一家、宗族(親戚・一族・一門)を滅ぼす。身分の上下で差別と順序があり、互いに臣服する」
長生きな人は100歳近くまで生きたとは驚きです。一夫多妻制のようですね。男性は戦死もあるから人口が少なかったのでしょうか?分かりませんね。妻同士の争いは少ないと書いてありますが、あくまで外国人使節の目ですから、見えない心の内ははたして???罰は中々厳しいですね。米作りが始まっていますが、日本のお酒の起源ってどこにありましたっけ?縄文時代からあった???米が無くても果実があれば酒はできると思いますけど???中南米のようなイモやバナナは無いですよね。それは兎も角、すでにお酒は存在し、みんな大好きだったと書いてあります。
倭人の経済~産物豊富 、賑わいと緊張
農業という点では、「稲、イチビ(繊維植物。網や籠の材料になる)、麻を植え、蚕を飼い糸を紡ぎ、布や絹、綿を生産する。この地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲(カササギ)はいない」
西洋が喉から手が出るほど欲しがった絹糸の養蚕をしていたようです。一方で、牛の力に頼った田畑の耕作や、物の運搬や乗り物としての馬は、邪馬台国の卑弥呼の時代(3世紀)の日本には、まだいなかったようです。
山野の資源としては、真珠や青玉がとれ、山には丹(あかつち)、樹木はクス、トチ、クスノキ、ボケ、クヌギ、カヤ、カシ、ヤマグワ(桑)、オカツラ。このほか各種の竹、「ショウガ、サンショウ、ミョウガがあるが、それで味の良い滋養になるものをつくることを知らない」そうです。天然の調味料・香辛料の存在には気づいていない模様。「猿、雉がいる」と書いてあります。あと、記述にはないですが、集落内には犬もいたことが知られています。
青銅器や鉄器生産も始まりますが、日本で鉱山開発はまだ行われておらず、大陸から原材料となる銅や鉄の塊などを手に入れて持ち帰った後、武器や道具に加工したようです。鉄資源を手に入れるために大陸への道を開拓し、他の国と競争したという点も重要です。独占したいけど、そこで戦争もあったのかなぁ~と想像できます。中国の皇帝に朝貢する理由のひとつに、そういった点もあったと思います。
武器については「矛、盾、木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢の先は鉄か骨の矢じりである」。
「租賦(ねんぐ・貢物)を収める。邸閣(倉庫、邸宅、商店)があり、国々に市がある。貿易を行い、倭人の中の大人(身分の高いもの)に監督させている」とあります。
市場は集落・国の外から大勢の人が訪れたでしょうし、商売上のもめ事もあったかもしれませんね。スパイが侵入するにはちょうど良さげな時。その日は監督する武人、警備兵も目を光らせていたことでしょう。一般市民で賑わう反面、武人たちの緊張感も伝わります。
吉野ケ里遺跡探索ですが、この時点でお城で例えるなら三の丸まで来た程度ですね。一般市民のエリアといったところでしょうか。柵は何重にも連なっています。次回は王などがいる二の丸、卑弥呼がいた本丸、そして墳墓を見ていきたいと思います。
表紙の写真=吉野ケ里遺跡の北内郭を遠望(2003年8月11日撮影)