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直感やひらめきに介入するものたち(磯野真穂『他者と生きる』を読んで)

昨夜の地震、皆さんは大丈夫でしたか?

関東でも大規模な範囲で停電が起きました。ライフラインのありがたさを感じつつ、防災の備えは見直そうと思いました。

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一昨年、哲学者・宮野真生子さんと人類学者・磯野真穂さんの往復書簡『急に具合が悪くなる』を読んだ。死が間際に迫った宮野さんの言葉はずしりと重い。それに対して、問いを重ねる磯野さんの覚悟もまた印象深くて。想いが詰まりに詰まった知の応酬に胸が騒いだ。

磯野さんの近著『他者と生きる』も迷わず購入。間違いなく、今年を代表する一冊になりそうだ。

不確実性が高い社会において、文化人類学という切り口で社会にまなざしを向ける。現代を生きる僕たちが、何に重きを置いて暮らしていくかの指針が問われている。

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多様性のもと揺らいだ個人の価値観

生きる上で、拠り所になるような原則はお持ちだろうか?

「健康が何より大事」「縁を大切に生きる」といった、個人理念のようなもの。大切にしている価値観といっても良いだろう。

それがどんな答えであっても、おそらく従来は、個人の経験則がベースになっているものが多かったはずだ。自分の想像力 / 経験則が及ぶ範囲(生活圏)における価値観は、強固で、揺らぐことはなかった。

しかし現代は、個人の価値観にふたつの要素が介入している。グローバル化およびSNSだ。異なる生活圏の人間が混ざる機会が激増する。スマホを動かせば、だいたいの人の思考パターンは窺い知ることができる(と思い込める)。

混ざることが急速に進み、個人の価値観が揺らぐケースが増えている。

これまで多少の体罰を許容していた教師を例にとろう。体罰=悪という昨今の風潮により、当人の価値観はガラガラと音を立てて崩れる。自らの教師人生が否定されたとも感じるだろう。「過去に体罰はしたけれど、卒業しても生徒は自分を慕ってくれていたはずでは?」という思いと裏腹に、世間の「ふつう」とは乖離する。

やや極端な例を挙げてしまった。が、異なる価値観がいくつも交差する中で、「自分の価値観は妥当なのだろうか?」と、疑問に思えても不思議ではない。

『ファクトフルネス』ベストセラーで出現した、エビデンスな人たち

「ファクトをもとに議論しよう」
「それってエビデンスあるの?」

論理的思考やクリティカル・シンキングはビジネスパーソンにとって最も重要な能力のひとつではあったが、それとは一線を画すような論理的思考が世の中を跋扈しているように感じる。(便宜的に「シン・論理的思考」と呼ぶ)

論理的思考に優れた人たちに話を聞くと、彼らは論理以前に、自らの直感を信じているそうだ。直感をもとに仮説を立て、それを起点に論旨を展開していくらしい。だから彼らは感性を磨こうとするし、質の高い情報源に身を置くようにしている。

だが、シン・論理的思考はそうではない。

彼らは直感を磨こうとしない。フォローしているインフルエンサーの意見を無意識に信奉している。インフルエンサーが「コロナは風邪だ」と断言すれば、そのための情報(ファクト)を収集し、持論を補強していく。論戦になった場合は、自らが得た情報を振りかざす。相手が黙ったりすれば(単に無視されているケースもある)、論破できたと溜飲を下げる。

情報は、あくまで情報だ。ロシアのウクライナ侵攻においても、ロシア側の視点、ウクライナ側の視点それぞれで情報の色合いはかなり変わる。自分に都合の良い情報だけを「情報」だと思うのは、あまりに危険だ。

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情報社会の今、ほとんどの物事は「分かりづらさ」で覆われている。

前項で記述した通り、異なる価値観同士で何度もすり合わせが必要になる世の中だ。早く答えを求めたい人にとって「分かりづらさ」はノイズでしかない

論文を読むより単行本を読む。単行本より文庫本を読む。本を読むより動画を観る。動画を観るよりTwitterを眺める。インフルエンサーの書き込みは単純明快で「分かりやすい」。エビデンスもどうやらあるらしい。

そんな感じで、直感は確実に痩せ細っていく。直感を放棄し、それらしい意見に依存するようになる。『ファクトフルネス』ブームの影で、そのようなファスト思考が隆盛を極めている。

遠い経験、近い経験

ここまで本を読んで、頭を巡っていた感想について駄文を綴ってきた。

本書で紹介されていた「遠い経験、近い経験」について、一部引用させていただく。人類学者のクリフォード・ギアツが『ローカル・ノレッジー解釈人類学論集』の中で記していた概念だ。(もともとは精神分析家のハインツ・小フートによるものとのこと)

・<近い=経験>:自分や自分の仲間が見たり感じたり考えたり想像したりすることを表現する際に、自然に無理なく使い、他人が同様に使った場合にもやはり容易に理解できるような概念のこと

・<遠い=経験>:何らかの専門家(中略)が、その科学的、哲学的、また実際的目的を果たすために用いるような概念のこと

・「愛」は<近い=経験>であり、「カセクシス対象」は<遠い=経験>である。「社会成層」や、大抵の人にとってはおそらく「宗教」も(「宗教体系」なら間違いない)<遠い=経験>である。「カースト」や「涅槃」は、少なくともヒンドゥー教徒や仏教徒にとっては<近い=経験>である。

(磯野真穂(2022)『他者と生きる〜リスク・病い・死をめぐる人類学〜』集英社新書、P40より引用)

僕が懸念しているのは、僕らが少しずつ「近い経験」を失いつつあるのではないかということ。「遠い経験」にシフトし、自らの意思決定を直感でなく、エビデンスらしきものに頼る人が増えているのではないか?

自分の実感を「n=1」のように卑下し、手放すのは非常に危ういと僕は思う。

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例えば「オミクロン株は重症化しないから、大したことないだろう」という言説。それが正しいかどうかはさておき、「遠い経験」に基づく所感であることは疑いないだろう。(感染症の専門家は別にして)

一方でオミクロン株に罹患し、40度近い熱にうなされたことがある人(や家族)は別の所感を持つだろう。「死ぬかと思った、めちゃくちゃつらいよ」という所感は、身体的な実感を伴う「近い経験」である。

近い経験を持てる人は、コロナに対して最大限の警戒を怠らない。良識があれば「どこからどこまでがOKか」という線引きを(疑いながらも)持つことができる。たぶん彼らは「経済か、命か」という愚かな二択の議論には加わらないだろう。

死者や重症者が数字として日々報告される。だが、たとえ死者がひとりであっても、ウィルスによって蝕まれる痛みは想像を絶するはずだ。

他者と生きる社会の中で、ウィルスから守るべき人に対して想像力を持てること。日々最前線で働いている人たちに敬意と配慮を持てること。

ゲームする感覚の冷笑主義者たちに、自分の感情まで攫われてはいけない。

私がここで示したかったのは、彼女たちの知識が正しいか誤っているかではなく、前節で示した<遠い=経験>がいかに彼女たちの日常生活に入り込み、<近い=経験>で語られていたリスクの実感を書き換えていくかであった。
なぜ私はこのような実感の書き換えの様相を提示したかったのか。それは<近い=経験>を、より正確であるとされる<遠い=経験>で塗り替え、介入対象の現実を介入側が適切であると考える形に変えることが、予防医学における介入の根幹にあるからである。
リスクを数字やグラフで見せられただけでは私たちの心は動かない。人々を動かすためには、そこに並べられている未来予測が自分のものであると実感させなければならないのだ。

(磯野真穂(2022)『他者と生きる〜リスク・病い・死をめぐる人類学〜』集英社新書、P42より引用)

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SNS時代は、他者とつながっているようで、実は独りよがりで生きるように仕向けられているのではないか。

他者というのは、いつだって不確実な存在だ。想定外の言説に心を乱されることはしょっちゅうだ。他者から、なるべく距離をとりたくなる気持ちも分からなくもない。

他者と関わることはハイリスクなのだろうか。それは独りよがりの人生と天秤にかけて、よくよく考えてみた方が良い。そもそも、僕は(あなたは)独りよがりに生きてしまってはいないだろうか。

その辺りから問いを始めるのが、ちょうど良いかもしれない。

他者と関わらなければ、偶然なる享受に巡り会うこともできないのだから。

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*Podcast*

磯野真穂『他者と生きる〜リスク・病い・死をめぐる人類学〜』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。

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ほりそう / 堀 聡太
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