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ことばによって自分を解き放つ(温又柔『「国語」から旅立って』を読んで)

村上春樹さんのような小説なら、書ける。

恐れ多くも、僕が小説を書き始めたときに思ったことだ。以来、執筆が進まなくなるたび、自分自身の原点回帰的な基準となっている。

逆立ちしたって、今の僕に、村上さんのような文章は書けない。それでも彼の視点や問いの立て方、テーマへの掘り下げ方はキャッチアップできると確信している。文章を書き続けさえいれば、彼のような、世の中を震わせるような小説を書ける。そんな気持ちで、僕は生きているのだ。

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だけど、絶対に真似することができない類の文章が、世の中にはいくつか存在する。

そのうちの一人、温又柔(おんゆうじゅう、または、ウェンヨウロウ)さんのテキストに、僕は近接することすらできない。彼女の図抜けた言語感覚は、自然体で瑞々しい。言語に対する深い理解は、「ことば」の持つ潜在能力をゆっくりと引き出すことに成功している。

今日もわたしは、小説を構想するために、エッセイを仕上げるために、パソコンと向きあっています。
目の前のモニタ画面に浮かぶのは、ひらがな、カタカナ、漢字。
自分の使っているこのことばたちが、“日本語である”という事実を、わたしはいつもちゃんと思いだそうと努めています。
そうしないと、はじめからこのことばだけを、日本語のみを、自分は聞いたり話したり読んだり書いたりしてきたのだと錯覚してしまいそうになるからです。
(温又柔『「国語」から旅立って』P9〜10より引用、太字は私)

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「チューゴク語がへたでニホン語はぺらぺらのタイワン人」という温さん。

2歳のときに両親と共に日本に来て、日本語をベースに育った。

物心ついて台湾に帰省したときに言語が通じなかったり、上海留学で「中国人にしては中国語が下手だね」と笑われたり、心ない日本人に「名前さえ言わなければ日本人にしか見えない」と言われたりする。

そのたびに、受容したり、違和感をおぼえたり、母国や日本語について葛藤したり。「国とは幻想である」ということを論じる書籍はたくさんあるが、温さんのように、それを究極の自分事として捉えているロジックは未だ見たことはない。

「日本人とはかくあるべき」という論争が、日本が抱える様々な問題を矮小化している中で、温さんのように、全く別の角度から「ことば」の役割を問い直そうとする姿勢は貴重だ。(しかもエッセイというフォーマットで。書かれているテキストがとても柔らかくて、スッと心に沁みてくるのだ)

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温さんは、どこまでも「ことば」を信頼している。

ことばを知り、文字を読み、文章を書くわたしの個人的な日々を綴ったこの本を読んでくださったあなたへ。あなたを育みつつあることばが、あなたのことを支えはしても、あなたを貶めるようなことが決してありませんように。ことばに縛られるのではなく、ことばによってあなたを解き放ってください。あなたにとってのニホン語も、あなたがのびやかに生きるための力の源でありますように。
いま、あなたがどこにいて、何歳だったとしても。
(温又柔『「国語」から旅立って』P259より引用、太字は私)

ことばを愛し、それゆえに言葉に悩み苦しんだ経験がある人が、それでも、ことばを愛している。

「ことばは、ツールだ」なんて軽々しく口にしていた自分が情けなくなる。でもそんな自分も包んでくれるほどに、温さんは強く、優しいのだ。

いつか僕も、ことばによって自分を解き放てる日が来ますように。

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*おまけ*

温又柔『「国語」から旅立って』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。

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堀聡太
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