養老孟司が考える、ものがわかるということ
世界をわかろうとする努力は大切である
人生の意味なんか「わからない」ほうがいい
この矛盾するふたつを携えながら、養老孟司さんの近著『ものをわかるということ』は記されていく。
子どものとき、勉強するのは何かを「わかる」ためだと思っていたのに、結局わかったことは何だろうか。その逡巡する気持ちを抱きながら、世間を見渡すと「わかった!」と喝破する言論で溢れている。そのたびにため息をつくのだが、養老さんは静かに語る。
「世界をわかろうとする努力は大切である。でもわかってしまってはいけないのである」と。
『ものをわかるということ』
(著者:養老孟司、祥伝社、2023年)
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本書を読んで印象的だったことを、テキストを引用しつつ、3つ紹介したい。
学習とは「身につく」こと
あいつ、わかった気になっていやしないか?
40歳を目前にして、意地悪に穿った見方をすることが多くなった。でも、その感覚はある意味正しいのかもしれない。その違和感の正体は、養老さん曰く「身体を伴っていない」ことだ。
英語だって、ただ読んだり聞いたりするだけじゃ不十分だ。
話したり書いたりというアウトプットを並行して行なわない限り、英語を習得することはできない。でも「話せない/書けない」状態でアウトプットするのは、それなりの努力(身体的な負荷)がないとなかなか難しい。
鼻くそをほじりながらXを眺め、共感できるポストを「いいね」するだけで、さも自分の意見を表明したかのようになる。でもそれは、自分が立ち上げたものではない。キーボードを叩きながら、時には指を痛めながらテキストを書く。そういった身体性を伴うプロセスを大事にしない限り、何も身につけることはできないのだ。
わかることで、さまざまな世界を知る
本書では冒頭に、代数ができない中学生の例が紹介される。「2a-a=2」と回答する人がかなり存在するのだという。
これはフィルターバブルと呼ばれている昨今の現象とも通ずる「課題」といえよう。
アメリカ前大統領のトランプを支持する人間は、トランプを支持する人間たちが語る「言語」の世界で生きている。他の「言語」や「価値観」が入るすき間はない。もちろん全てはグラデーションなのだけれど、グラデーションが二極化しつつあるのも、現代社会の特徴といえるかもしれない。
さまざまな世界があることを知ること。
そのための出発点として、「わかる」という営みや、不断の努力が欠かせないのであろう。
決めつけずに、観察をしよう
考えるとは何だろうか。
考えるとは、何かしらの「判断をくだす」行為を伴うものではないだろうか。もちろん結論を保留にするという判断をくだす可能性もあるが、「AにするかBにするか」といった意思決定を、僕たちは日々無限に行なっている。
意思決定をするためには、材料を集めないといけない。
富士山に行くか、八ヶ岳に行くか。「富士山は日本一高い山だから、せっかくならば富士山に行こう」という意思決定の裏には、富士山という山に対する固有のイメージがセットだろう。だけど養老さんは「昨日と今日の富士山は違う」と言う。自分も含めて、全てのものは、日々変化する。その変化を観察するのは大変だから、僕たちはイメージを抱いたり、現象に名前をつけたりするのだ。
養老さんは本書で、アリグモという「アリそっくりのクモ」について紹介する。(URLをクリックすると「警告」されますが、アリグモの画像に飛ぶことができます)
パッと見ただけではアリにしか見えない。
だけど観察を積み重ねていくことで、アリとの違いに気付くようになる。昆虫に限らず、すべての現象において「『考えずに、まずは見る』ことを徹底せよ」と養老さんは説くのだ。
考えることが重視される時代だ。見ているだけでは、どこか物足りない。言葉を選ばなければ、バカっぽく見えてしまう。でも早計に判断を下すことのリスクはあり、そのリスクが顕在化しているのが現代社会といえるかもしれない。(この結論も、観察が足りないですね。いけないいけない)
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86歳になる養老さん。
実はYouTubeチャンネルでの発信も定期的に行なっています。知の巨人の「知」に、今こそ耳を傾けたいと思います。