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養老孟司が考える、ものがわかるということ

世界をわかろうとする努力は大切である
人生の意味なんか「わからない」ほうがいい

この矛盾するふたつを携えながら、養老孟司さんの近著『ものをわかるということ』は記されていく。

子どものとき、勉強するのは何かを「わかる」ためだと思っていたのに、結局わかったことは何だろうか。その逡巡する気持ちを抱きながら、世間を見渡すと「わかった!」と喝破する言論で溢れている。そのたびにため息をつくのだが、養老さんは静かに語る。

世界をわかろうとする努力は大切である。でもわかってしまってはいけないのである」と。

『ものをわかるということ』
(著者:養老孟司、祥伝社、2023年)

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本書を読んで印象的だったことを、テキストを引用しつつ、3つ紹介したい。


学習とは「身につく」こと

あいつ、わかった気になっていやしないか?

40歳を目前にして、意地悪に穿った見方をすることが多くなった。でも、その感覚はある意味正しいのかもしれない。その違和感の正体は、養老さん曰く「身体を伴っていない」ことだ。

私がいまも作り続けている虫の標本も手作業です。(中略)私が作っている標本は、ノミのサイズが普通だから、単純に昆虫針を刺せばいいというものではないのです。
ではどうするか。白い厚紙を三角に切って、その先端に糊で虫を貼る。紙の先をわずかに曲げて接着面を作り、そこに虫の横腹を貼り付ける。そうすれば、小さい虫の背腹両面が観察できる標本となります。
大変面倒くさい作業ですが、こういう手作業を経ないと、本当の「学習」にはなりません。学習とは「身につく」こと、身体を伴ってわかることです。

(養老孟司(2023)『ものがわかるということ』祥伝社、P29より引用)

英語だって、ただ読んだり聞いたりするだけじゃ不十分だ。

話したり書いたりというアウトプットを並行して行なわない限り、英語を習得することはできない。でも「話せない/書けない」状態でアウトプットするのは、それなりの努力(身体的な負荷)がないとなかなか難しい。

鼻くそをほじりながらXを眺め、共感できるポストを「いいね」するだけで、さも自分の意見を表明したかのようになる。でもそれは、自分が立ち上げたものではない。キーボードを叩きながら、時には指を痛めながらテキストを書く。そういった身体性を伴うプロセスを大事にしない限り、何も身につけることはできないのだ。

わかることで、さまざまな世界を知る

本書では冒頭に、代数ができない中学生の例が紹介される。「2a-a=2」と回答する人がかなり存在するのだという。

2aからaを「とったら」、残りは2ではないか。こう考えた子はまだ日常言語の世界に住んでいます。本人も周囲もそんな気はないかもしれないけれど、子どもはまず日常言語の世界で育ちます。(中略)
でも数学の世界は数学の世界であって、日常言語の世界ではありません。だからaや方程式のxが出てくるけれど、これは言葉ではないのです。(中略)思い切って日常言語の世界から出て、数学の世界に飛び込むのが数学を学ぶことで、これは一種の冒険なのです。慣れ親しんだ世界から、見たこともない世界に入っていくからです。

(養老孟司(2023)『ものがわかるということ』祥伝社、P52〜53より引用)

これはフィルターバブルと呼ばれている昨今の現象とも通ずる「課題」といえよう。

アメリカ前大統領のトランプを支持する人間は、トランプを支持する人間たちが語る「言語」の世界で生きている。他の「言語」や「価値観」が入るすき間はない。もちろん全てはグラデーションなのだけれど、グラデーションが二極化しつつあるのも、現代社会の特徴といえるかもしれない。

さまざまな世界があることを知ること。

そのための出発点として、「わかる」という営みや、不断の努力が欠かせないのであろう。

決めつけずに、観察をしよう

考えるとは何だろうか。

考えるとは、何かしらの「判断をくだす」行為を伴うものではないだろうか。もちろん結論を保留にするという判断をくだす可能性もあるが、「AにするかBにするか」といった意思決定を、僕たちは日々無限に行なっている。

意思決定をするためには、材料を集めないといけない。

富士山に行くか、八ヶ岳に行くか。「富士山は日本一高い山だから、せっかくならば富士山に行こう」という意思決定の裏には、富士山という山に対する固有のイメージがセットだろう。だけど養老さんは「昨日と今日の富士山は違う」と言う。自分も含めて、全てのものは、日々変化する。その変化を観察するのは大変だから、僕たちはイメージを抱いたり、現象に名前をつけたりするのだ。

自分の目で見るということは、その日その時その場で体験することで、二度と見ることはできないもの、他人が見ることはできないものを見ます。だからとにかく自分で見てみることです。何も考えないで、ただ見ればいい。
「見る」ことを繰り返すと違いがわかるようになります。

(養老孟司(2023)『ものがわかるということ』祥伝社、P197より引用)

養老さんは本書で、アリグモという「アリそっくりのクモ」について紹介する。(URLをクリックすると「警告」されますが、アリグモの画像に飛ぶことができます)

パッと見ただけではアリにしか見えない。

だけど観察を積み重ねていくことで、アリとの違いに気付くようになる。昆虫に限らず、すべての現象において「『考えずに、まずは見る』ことを徹底せよ」と養老さんは説くのだ。

考えることが重視される時代だ。見ているだけでは、どこか物足りない。言葉を選ばなければ、バカっぽく見えてしまう。でも早計に判断を下すことのリスクはあり、そのリスクが顕在化しているのが現代社会といえるかもしれない。(この結論も、観察が足りないですね。いけないいけない)

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86歳になる養老さん。

実はYouTubeチャンネルでの発信も定期的に行なっています。知の巨人の「知」に、今こそ耳を傾けたいと思います。

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ほりそう / 堀 聡太
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