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資本主義社会だからこそ、お金で買えないものの価値を大切にしたい。(近内悠太『世界は贈与でできている』を読んで)

話題になっていた本で、もっと早く読みたかった1冊でした。

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経済合理性の追求に慣れ過ぎてしまった社会

みんな経済のことが好きなんだなあ。

そう実感したのはコロナ禍でした。政治家、経済学者や経営者以外のたちも「経済をまわそう」という言葉を口にしました。

確かに2020年4〜5月は、未知のウィルスに対する恐怖が社会に蔓延していました。志村けんさんや岡江久美子さんなど著名人の死をきっかけに、保健所等への問い合わせも急増したといいます。夏前に落ち着くと、その反動は「Go To トラベル」という国策によって顕著になりました。

経済学者の竹中平蔵さんは「Go Toキャンペーンで2,000億円投じた。それに伴い消費は5兆円だった。25倍という政策効果は物凄かった」と述べています。

動画に対して賛否両論ありますが、ひとつ言えるのは、数値を用いた経済合理性(お金による等価交換など)によって、物事の善し悪しが判断されているということだと思います。

政府は「このキャンペーンによって第3波が起こったという直接の因果関係はない」と公式見解を示しています。これは前年に刊行されたハンス・ロスリングさんの『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』のベストセラーによって、エビデンスという言葉が広く使われるようになったことも影響しているでしょう。物事の判断を科学的見地によって見定めようという流れは、経済合理性を重視する人たちによって馴染みやすいものだったからです。(僕自身もこれらを否定する立場ではないと申し添えておきます)

資本主義の「すきま」を担う、贈与という価値

近内さんは「僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動」を贈与と定義しています。

例えば「家族」をお金で買うことはできません。

どんなに資産を持っていても、家族にしたい相手が拒めば、家族を手に入れることはできません。

信頼も同じでしょう。信用はある程度、売り買いを介して、やりとりすることが可能です。しかし「担保なしで、無条件で相手を信じる」という信頼はお金で買うことはできません。

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贈与の重要性は、資本主義社会の中でますます高まっているといえます。

日本人は、以前よりずっと便利な生活ができるようになりました。最近、NTTドコモによる『iモード卒業公演』というCMを例に考えてみましょう。

動画を見ると、2000年にiモードが出た当初は、今よりも不自由だったことが分かります。「ワン切り」という文化が流行していましたが、うっかり相手が電話に出てしまうと「10円というコスト」が発生してしまいます。今はLINEがあり、その通知で相手からのリアクションがあることが分かります。そこにコストは発生しなくなりました。

このCMが「懐かしい!」と評判なのは、当時の生活に「幸せ」を見出すことができるからだと思います。

お互いの時間を使いながら、メッセージ、赤外線通信、センター問い合わせなどのやりとりを行ないます。メールがこなければイライラしました。だけど良好な友人関係(お金で買うことはできません)がそこにはあって「不自由だったけど楽しかったね」という感覚が思い出されるのです。

そこに、お金による交換はありません。

iPhoneなどの電子機器や、Wi-Fiや5Gなどの通信環境は、経済合理性を高めた結果、作り上げられた文明の利器です。しかし幸せが倍化したかといえばそうではなく、むしろ「時間に追われてしまっているなあ」と、幸福感が減退しているような気もします。

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iPhoneというスマートフォンを手にして、得られるのはスマートな生活なはずでした。

だけどスマートフォンという高額商品を購入しても、幸せは得られない。なぜなら幸せとは等価交換ができないものであり、幸せとは贈与を通じて提供(あるいは獲得)するものだからです。

お金で買えないものが贈与である以上、与えた側はそこに見返りを求めることはできません。もし何らかの対価を求めるのであれば、それは経済学的に計算可能な「交換」となります。
これをあげるから、それをくれ。
これをしてあげるから、それをしてくれ。
これは等価交換であり、計算可能です。
それに対し、贈与は計算不可能なのです。

(近内悠太(2020)『世界は贈与でできている〜資本主義のすきまを埋める倫理学〜』NewsPicksパブリッシング、P42より引用、太字は本書より)

他人に迷惑をかけるかもしれないけれど

ビジネスシーンでは「GIve&Take」や「Win-Win」というものが当たり前のように交わされています。

これは裏を返すと「まともなGiveができない者は、何も受け取るべきではない」という論理になりかねません。知識や経験がない「持たざる者」ができる術といえば、自分の時間を切り売りして労働力を提供するしかありません。(労働力を切り売りした結果、知識や経験を得て、一人前のビジネスパーソンになれるというロジックもありますが)

ただし近内さんは、このような風潮を「他人に迷惑はかけられない」という無言の圧力がかかっているものと危惧しています。

そもそも、僕らがつながりを必要とするのは、まさに交換することができなくなったときではないでしょうか。
僕らが困窮し、思わず誰かに助けを求めるとき、交換するものを持ち合わせていないからこそ「助けて」と声にするのではないでしょうか。
仮に、もし交換するもの(金銭や労働力、あるいは能力や才能)を持っているなら、そもそも「助けて」と声をあげる必要はありません。あるいは、金銭的余裕があり健康状態や年齢が一定の基準を満たしていれば、「保険」に加入してリスクヘッジすることもできます。
だとするならばこうなります。
交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる
何も持たない状況では、誰かを頼り、誰かに助けを求めることが原理的に不可能なのです。

(近内悠太(2020)『世界は贈与でできている〜資本主義のすきまを埋める倫理学〜』NewsPicksパブリッシング、P53〜54より引用、太字は本書より)

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あくまでこのnoteは、本書の一部を切り取ったものですので、いたずらに新自由主義に見られるような「自己責任論」を否定する意図はありません。

ただ、資本主義というエコシステムに慣れてしまった僕たちが、このまま成長だけを追い続けて良いのでしょうか?

SDGsという持続可能な社会づくりが提唱されているとはいえ、成長を良しとされる風潮は根強く残っています。金融を支える投資家がそれを積極的に望んでいる限り、資本主義が中心になるでしょう。

資本主義を支える、お金などによる等価交換は、とても便利です。何より速い。お金さえ支払えば、あっという間にサービスを享受できます。

だけど「お金さえ支払えば」というのが、諸刃の剣にもなり得ることを忘れてはいけません。SNS上で見られる「インフルエンサーによるお金配り」の現象は、お金によって「信頼らしきもの」を獲得しようという試みとも言えます。

信頼という、お金で買えないものの価値を過小評価してしまえば、「本物の信頼」に気付けなくなります。「お金で買えるんでしょ」という考え方は極めて危険だと僕は思います。

2020年代は不確実な時代です。だからこそ頼り頼られ生きることを前提にした方が、何かと安心できるはず。本書は、現代を生きる僕たちへのとっておきの処方箋になることでしょう。

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*おまけ*

近内悠太『世界は贈与でできている』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。

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堀聡太
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