いのちの車窓のそばで、文章を書く

音楽家として、俳優として活躍する星野源さんには、文筆家としての「顔」がある。

私は星野さんの音楽が好きだ。ラジオ番組「星野源のオールナイトニッポン」も、わりと高い頻度で聴いている。星野さんが出演しているドラマや映画、そしてコント番組でも、何度となく感情を動かされてきた。

ありていにいえば、いつも励まされてきた。

1981年生まれの43歳の星野さん。兄や姉のいない私にとって、どこか「お兄ちゃん」のような親近感があったように思う。(今まで自覚してなかったけれど、こうして文章を綴る中で、ふと「お兄ちゃん」としての親しみがあtったように思えたのだ)

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そんな星野さんの最新エッセイ集『いのちの車窓から 2』が発売された。

まずは未読だった、2017年に発売された『いのちの車窓から』を読んでみる。驚いた。どうしてこんなに、私の“近く”で文章を書いてくれるのだろうか。

伝達欲というものが人間にはり、その欲の中にはいろんな要素が含まれます。こと文章においては、「これを伝えることによって、こう思われたい」という自己承認欲求に基づいたエゴやナルシシズムの過剰提供が生まれやすく、音楽もそうですが、表現や伝えたいという想いには不純物が付きまといます。それらと戦い、限りなく削ぎ落とすことは素人には難しく、プロ中のプロにしかできないことなんだと、いろんな本を読むようになった今、思うようになりました。

(星野源(2017)『いのちの車窓から』KADOKAWA、P195より引用)

「あとがき」で書かれている文章だ。

エゴやナルシシズムの過剰提供。星野さんの正反対に存在するような世界で、提供(供給)され続ける物語。その情報量(と罵詈雑言)に、私はちょうど疲弊していたのだ。

でも、そんな私だってエゴやナルシシズムと無関係ではいられない。それがなければ、きっと1,300日も連続してnoteなんて書き続けられない。間違いなく。

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11月のはじめ、星野さんは自らが生み出した「ドラえもん」という曲について言及している。映画主題歌として作られた楽曲が、アニメ主題歌として5年間起用され、そしてこのたび“終わり”を迎えたという。

Gén Hoshino 星野源 on Instagram: "この「ドラえもん」という楽曲は、初めは『映画ドラえもん のび太の宝島』の主題歌として書き下ろしたものでした。 こんな機会はもう二度とないだろうと、映画の物語や、自分をずっと支えてくれた『ドラえもん』という作品そのもの、そして藤子・F・不二雄先生への想いを詰め込みました。 そこから数ヶ月経ったある日、プロデューサーの方から、「この楽曲をテレビシリーズの主題歌にしたい」とお話をいただきました。もちろん、めちゃくちゃ驚きました。でも、心から光栄で、すごく嬉しかったです。 はじめは "1年間限定" でのテレビシリーズ主題歌というお話でした。なので、きっと1年後には "夢をかなえてドラえもん" に戻るんだろうな、そんなに長く自分の曲を流してもらえるなんて、本当にありがたいな、と思っていました。 すると1年後、「好評なのでもう1年お願いしたい」と言っていただき、その後も「もう1年」「もう1年」と、どんどん継続し、気が付けば5年間もテレビシリーズの主題歌として流れていました。 幸せな5年間でした。街を歩いていて、「ドラえもん」を歌っている小さな子供とすれ違う度に、かけがえのない嬉しさに包まれました。そして後ろを振り返ると、そこにはドラえもんの単行本を夢中で読んでいる、幼い自分の背中が見えました。 あの頃、僕は確かに、『ドラえもん』を読んでいる間だけは、ひとりぼっちではありませんでした。もちろんアニメを観ている時も。ずっとニコニコしていたし、生活の中に不思議やコメディを見出すことができ、大長編では世界を、宇宙を旅している感覚になりました。なんなのでしょうね、あの特別な時間は。 改めて、『ドラえもん』制作チームの皆様、キャストの皆様、この楽曲を愛してくれている皆様、藤子先生の親族の皆様、菊池俊輔先生、そして藤子・F・不二雄先生、ありがとうございました。 星野源の「ドラえもん」がテレビシリーズの主題歌として流れるのは今日が最後ですが、YouTubeのドラえもん公式チャンネルに、この曲が流れるオープニング映像が公式にアップされているそうです。ぜひ何度でも観て、聴いてください。 これからも、いちファンとして応援しています! きっと僕はこれからも、辛い時や高い壁が立ちはだかった時、心の中に向かって、あなたの名前を呼ぶでしょう。 そのユーモアは、その不思議は、その勇気は、いつだって心の押し入れの中で息づいていて、いまも僕を支えてくれています。 #ドラえもん" iamgenhoshino on November 2, 2024: "この「ドラえもん」という楽曲は、初めは『映画ドラえ www.instagram.com

私は、改めて「ドラえもん」を聴いた。

そのとき、そういえば何度となく、胸がギュッと掴まれるような歌詞があったことに気付いた。

少しだけ不思議な 普段のお話
指先と机の間 二次元
落ちこぼれた君も 出来すぎあの子も
同じ雲の下で 暮らした次元
そこに四次元

(星野源「ドラえもん」より)

分かるだろうか。「出来すぎ」という部分である。

「ドラえもん」において出木杉英才という人物は、完璧な少年として描かれる。物語の冒頭にちょっと顔を出して、「フリ」のようなコメントを発し、そして物語から退場してしまう。

ただ、彼はのび太たちと不仲だったわけではない。「のび太の結婚前夜」では、出木杉はジャイアンやスネ夫とともに、のび太の結婚を祝う姿が映されている。

ただこれも、出木杉というキャラクターが“便利に”使われている証左のような気がしなくもない。実際、私は「ドラえもん」の中で出木杉という人物は重要な位置付けでないと思っている。し、思ってきた。

それが、ちょっとだけ違和感だったのだ。少年時代の私は、決して出木杉のような完璧な少年ではなかった。ただ、それなりに成績は良かったから、「もしドラえもんがいたとして、私のような優等生は冒険に連れていってもらえないのではないか。出木杉と同じように」と思っていたのだ。

そういった私の感覚を慮ったわけではないだろう。でも星野さんは、「ドラえもん」の歌詞の中で、出木杉を想起させたのだった。

「ここにおいでよ 一緒に冒険しよう」

私も出木杉も、ドラえもんの「ファミリー」として認められている。もともと、それが藤子・F・不二雄さんのメッセージでもあったはずだ。それを、ちゃんと思い出させてくれたのだ。

*

星野さんのエッセイは、めちゃくちゃ読みやすいかといえば、実はそうではない(と私は思う)。

基本的には具体的なエピソードが語られるが、突如として抽象的な思考がなぐり書きのように展開される。

みんなの「星野源」であり、ひとりの「星野源」でもある。優しく気配りのできる人間でもある一方で、意固地で自らの殻に閉じこもってしまう一面もある。

そんな星野さんのことを「お兄ちゃん」だと思えるのは、私もまた星野さんのような生き方でしか生きられないからだろうと思う。星野さんはエッセイで語る。

自分はひとりではない。しかしずっとひとりだ。いつの間にかひとりであるということが大前提となっていて、特に意識もしなくなった。(中略)
予想もしなかったような楽しくて嬉しい終着駅にたどり着けるように、より良い窓を覗いていきたい。それは現実逃避ではなく、現実を現実的に乗り越えていく為の、工夫と知恵ではないかと思う。

(星野源(2017)『いのちの車窓から』KADOKAWA、P191〜192より引用)

めいっぱいの力を込めて、「どどどどどどどどど……」と歌う星野さん。

仮に、今日いちにち落ちこぼれたとしても、また明日から頑張れる。私も、星野さんとは違う現場で、私らしい文章を書きたいと思った。

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ほりそう / 堀 聡太
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