いのちの車窓のそばで、文章を書く
音楽家として、俳優として活躍する星野源さんには、文筆家としての「顔」がある。
私は星野さんの音楽が好きだ。ラジオ番組「星野源のオールナイトニッポン」も、わりと高い頻度で聴いている。星野さんが出演しているドラマや映画、そしてコント番組でも、何度となく感情を動かされてきた。
ありていにいえば、いつも励まされてきた。
1981年生まれの43歳の星野さん。兄や姉のいない私にとって、どこか「お兄ちゃん」のような親近感があったように思う。(今まで自覚してなかったけれど、こうして文章を綴る中で、ふと「お兄ちゃん」としての親しみがあtったように思えたのだ)
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そんな星野さんの最新エッセイ集『いのちの車窓から 2』が発売された。
まずは未読だった、2017年に発売された『いのちの車窓から』を読んでみる。驚いた。どうしてこんなに、私の“近く”で文章を書いてくれるのだろうか。
「あとがき」で書かれている文章だ。
エゴやナルシシズムの過剰提供。星野さんの正反対に存在するような世界で、提供(供給)され続ける物語。その情報量(と罵詈雑言)に、私はちょうど疲弊していたのだ。
でも、そんな私だってエゴやナルシシズムと無関係ではいられない。それがなければ、きっと1,300日も連続してnoteなんて書き続けられない。間違いなく。
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11月のはじめ、星野さんは自らが生み出した「ドラえもん」という曲について言及している。映画主題歌として作られた楽曲が、アニメ主題歌として5年間起用され、そしてこのたび“終わり”を迎えたという。
私は、改めて「ドラえもん」を聴いた。
そのとき、そういえば何度となく、胸がギュッと掴まれるような歌詞があったことに気付いた。
分かるだろうか。「出来すぎ」という部分である。
「ドラえもん」において出木杉英才という人物は、完璧な少年として描かれる。物語の冒頭にちょっと顔を出して、「フリ」のようなコメントを発し、そして物語から退場してしまう。
ただ、彼はのび太たちと不仲だったわけではない。「のび太の結婚前夜」では、出木杉はジャイアンやスネ夫とともに、のび太の結婚を祝う姿が映されている。
ただこれも、出木杉というキャラクターが“便利に”使われている証左のような気がしなくもない。実際、私は「ドラえもん」の中で出木杉という人物は重要な位置付けでないと思っている。し、思ってきた。
それが、ちょっとだけ違和感だったのだ。少年時代の私は、決して出木杉のような完璧な少年ではなかった。ただ、それなりに成績は良かったから、「もしドラえもんがいたとして、私のような優等生は冒険に連れていってもらえないのではないか。出木杉と同じように」と思っていたのだ。
そういった私の感覚を慮ったわけではないだろう。でも星野さんは、「ドラえもん」の歌詞の中で、出木杉を想起させたのだった。
「ここにおいでよ 一緒に冒険しよう」
私も出木杉も、ドラえもんの「ファミリー」として認められている。もともと、それが藤子・F・不二雄さんのメッセージでもあったはずだ。それを、ちゃんと思い出させてくれたのだ。
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星野さんのエッセイは、めちゃくちゃ読みやすいかといえば、実はそうではない(と私は思う)。
基本的には具体的なエピソードが語られるが、突如として抽象的な思考がなぐり書きのように展開される。
みんなの「星野源」であり、ひとりの「星野源」でもある。優しく気配りのできる人間でもある一方で、意固地で自らの殻に閉じこもってしまう一面もある。
そんな星野さんのことを「お兄ちゃん」だと思えるのは、私もまた星野さんのような生き方でしか生きられないからだろうと思う。星野さんはエッセイで語る。
めいっぱいの力を込めて、「どどどどどどどどど……」と歌う星野さん。
仮に、今日いちにち落ちこぼれたとしても、また明日から頑張れる。私も、星野さんとは違う現場で、私らしい文章を書きたいと思った。
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