一元観エピソード11〜書きのたね@DoLaさん編〜
なんとなくモヤモヤしてしまう…それをnoteに書き出すことでスッキリさせようとすることってないですか❓
けれど、書いていてもなんとなくまとまりも解決もないままで、下書きに保存しちゃったり…。
えいやぁでアップさせてみたものの…うーん、こんなんでいいかなぁ…なんてまた新たなモヤモヤを生んでしまったり…。
書きのたねさんはそれを『一元観への進捗レポート』と名を打って、えいやぁと、応募してくれました。
と、書きのたねさんは書かれています。
そのくらい二元観の中、ジャッジの世界の中で、ズブズブと暮らしていたと面白く楽しく表現しています。
きっとここには言い表せられないくらいの思いはあったかもしれないけれど…。
表現が面白すぎる書きのたねさん。
ジャッジされながら生きてきたらそりゃ嫌でもそうなってしまうだろう。
自分の考えに自信がなくなり、正解を人に委ねたくなる。
聞きたくなる。
いいの?
これでいいの?
こっちなの?
え?違うの?
あっちなの?
どっちなの?
そんな不安がついてまわる。
決めていいの?
決めちゃダメなの?
何が正解なの?
何が不正解なの?
正解ってなに?
誰にとっての正解なの?
私の気持ち?
私の気持ちってなに?
自分らしく?
自分らしいってなに?
どこ?
わかんない…。
気づけば自分の気持ちさえ見失ってしまっている…。
そんなこともあるよ。
そんな風にもなるよ。
「こうすべき」の答えを探しがち。
「私がこうしたい」は見失いがち。
『あんなに叱られたのに【一元観への進捗レポート】』の中に貼られている『小2、ひだまりの廊下で読書』の最後には「思い出すたびにいろんな捉え方をさせてくれる。」と書きのたねさんは書かれています。
その時の自分が、その時の答えを出す。
過去にあった出来事を時々思い出して
「もしかしたらあの時はこう思っていたけどこうだったのかな?」
「こういうことかな?」
「こんな捉え方も出来るな」
なんてことを考えるのも一元観で物事を考えられるようになるチャンスなのかもしれない。
だけど不思議なのは、書きのたねさんのコメントなんですよね。
私のところや他の方のところで書きのたねさんのコメントを読むと、不安を取ってくれるような発言があったりする。
なんだかこちらに力と安心感、そして笑いを与えてくれるのです。
だから、こちらの書きのたねさんのエピソードを読むまではジャッジ沼にズブズブの人だなんて思いもしなかった。
だって、noteの中の書きのたねさんのコメントはいつだってジャッジしないで一元観でいてくれたから。
もしかしたら沼から出てきて「金の斧」を与えてくれるお方なのかもしれない。
その沼から見えていた景色の中で培った力。
その力に、読んでいる人たちも力をいただいているのかもしれない。
そして、素晴らしいなぁ感じたのは、この『あんなに叱られたのに』でのコメントのやり取り‼️
このコメント欄は、内観した話や一元観を考えさせられるたくさんの思い、コメントがたくさんあるんですよ❗️
この記事は、コメント欄を含めて完結しているんじゃないかと思えるほどなんです。
ぜひともコメント欄まで目を通して読んでいただきたい。
そしてぜひともみなさんにもコメントしていただきたいです‼️
っていうか、書きのたねさんのコメント欄はラリーが多い気がする。
なんかね、ポーンポーンポーンと打ち返したくなる魅力があるんですよね。
『雨に良いも悪いもない』と一元観では言ってますが、書きのたねさんは雨が好きらしい。
そんな素敵な記事をどうぞ。
雨が好きな人はモテるって聞いたことがある。
雨をどうしても憂鬱に思ってしまう癖毛の私からしたら羨ましい限り…🥺
嘘でも「雨が好き」と言ってみたい。
〜アマチュアの三軍ららみぃたん、心のボヤキ〜
なるほど❗️
なぜ雨が好きなのか分析するというのも自分探しに繋がるんですね。
自分を分析して自分をわかっていくと、そこにいいも悪いもジャッジしないありのままの自分が見つけられるかもしれない。
書きのたねさんの進捗レポートは、まだまだ続きそうで、楽しみです😆
コメントも楽しみです🥰
書きのたねさん、企画にご参加してくださりありがとうございました😊