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スルーできない人が生む、新たな「気持ち悪さ」
気持ち悪いと感じるのは自由だが、それを攻撃し、他人を矯正しようとするのは別問題だ。
「実害がないのに気持ち悪い」と感じること自体は割と誰にでもある。
なぜなら、爬虫類や黒板を引っ掻く音などが苦手な生理的な嫌悪感と、過去のトラウマが引き起こす映画や政治的な思想、人の言動などの、価値観的な嫌悪感が感情へ働きかけ、後者は人を暴力的な行動へ誘いやすいように思う。
「自分以外にも、この気持ち悪さが分かる人がいないかな?共感してもらえるかな?」
SNSを使い、自分と同じ心境の人がいないかと確認するのも、よく見る光景。
しかし、共感する人が多数いたのを動機にして、
わざわざ攻撃するか、どうかが問題。
実社会で、「気持ち悪いな」と思っても、いちいち口に出して攻撃しない。
ファミレスにいるオッサンが爪楊枝でシーハーやっていても、塗装を派手に改造した車がいても、
ぶりっ子のオバサンへも、嫌だなと思ってもスルーするのが大人の対応。
「実害がないのに気持ち悪い」と感じたことは誰にでもある。しかし、積極的に攻撃しようとする人って、排他的な傾向があるように見られることがある。
自分の価値観が正しいと信じて、他人を矯正しようとする。
現在「実害がないのに気持ち悪い」という議論を巡って、実際にわたし自身も攻撃を受けている。こうした経験から、なぜ人は他者を矯正しようとするのかを考えてみたい。
「気持ち悪い」と思うのは自由。
しかし、それを罰しようとするのは別の話で、実害がないと判断された物事を攻撃する人は、「自分が気に食わないもの」を罰するために動いている。
本当に危険なものは取り締まればいい。
ただ「気持ち悪い」からといって排除しようとするのは、単なる独善的に感じる。
あえて、わたし個人の視点に固執せず、多角的な視点を深めてみた。
1. 「気持ち悪い」と感じること自体は誰にでもあるのは本当か?
生理的嫌悪(爬虫類が苦手、黒板を引っかく音が不快など)は、多くの人が持つ感覚。
しかし、価値観的嫌悪(創作、思想、言動など)は個人差が大きい。
例えば、タトゥーを見て「気持ち悪い」と思う人もいれば、何も感じない人もいる。
さらには、タトゥーを入れている背景(文化、個人の選択、社会的立場など)を知れば、単純に「気持ち悪い」とは言えなくなることもある。
つまり「誰にでもある」という言葉は正しいが、その程度や対象、表現の仕方は人それぞれ。個人の感覚を一括りにしてしまうと、見落とされる視点があるかもしれない。
こうすると
・「気持ち悪い」と思うのは人間の自然な感情
・しかし、その感じ方は人によって異なる。
一概に決めつけられない。
反社会組織の人は、上に行くほどタトゥーはなく、高学歴エリート経済ヤクザはタトゥーをしない。
足を洗って一般社会へ早く馴染める、アレルギーや医療行為へのリスクを減らすなど、
『実態を知って怖い人』が気持ち悪いよ。
同じ「気持ち悪い」と感じる対象でも、ある人は「ちょっと苦手だな」と感じる程度で終わるかもしれないし、別の人は強い嫌悪感を抱くかもしれないし。
表現方法も、心の中で思うだけの人もいれば、SNSで積極的に発信する人もいる。
「誰にでもある」という言葉で十把一絡げにしてしまうのは、聞こえてこない個人の感情や価値観を無視していると言えるかもしれない。
2. 「気持ち悪い」と感じたものを攻撃するのは
独善的な傾向がある、は言い過ぎか?
自分の価値観を押し付けようとする行為は、支配的と捉えられても仕方ないと思う。
だけど、誤解を招かないように「気持ち悪い」と感じたものを攻撃する全ての人が、そのような意図を持っているとは限らない。
情報を発信することよって共感を求めたり、
同じように不快に思っている人がいないか確認したいという動機で発信する人もいる。
また、社会的な問題提起として、あえて過激な言葉を使う人もいる。
「オジサンがパーカーを着るのはみっともない」が物議を醸したのもそうだ。
一概に独善的と断定してしまうのは、短絡的かもしれない。
3. 「実害がないのに気持ち悪い」ものを攻撃するのは問題は本当か?
「実害がない」の定義は、人によって異なる。
ある人にとっては些細なことでも、別の人にとっては大きな苦痛になる。
年齢や性別など、直接的な実害がないように思えるものでも、周囲に不快感を与えたり、差別的な感情を煽る可能性もある。言葉による暴力は、目に見えなくても人の心を深く傷つける。
「実害がない」という言葉で片付けるのは、問題の本質を見失う可能性があるかもしれない。
なぜ、わたしは記事にするにあたり、なるべく多角的に検討する必要があったのかと言えば
・「気持ち悪い」と感じる対象の多様
・「気持ち悪い」という感情と差別との関係
・ インターネットにおける誹謗中傷の問題
特に、差別や偏見を生む発言は、誹謗中傷が発生する問題と切っても切れない。
良かれと思った提議に集まった人が集団リンチをしていると、この人達自体が『気持ち悪い』。
分かりますか?
「実害がない、でも、気持ち悪い」
スルーすれば良いことへ、攻撃を加えるnoterは
ケースバイケースだが、大半はイジメの構造に似ている。
そう、第三者から見られても自己責任ですからね。
わたしも黙っていればよかったのですが、
実害がないけど、気持ち悪いものへスルーする姿勢を明言したら、『気持ち悪いものをスルーできない人』から毎日、個人攻撃をされて困っているんです。
わたしを侮辱する名誉毀損なメッセージが届き、
心が折れそうになる。
これって被害者意識の強い加害者の言動じゃん。
どうして相手は自分が正しいと信じて、わたしを矯正しようとするのでしょうね。
もう一度言いますね。
気持ち悪いと感じるのは自由だが、それを攻撃し、他人を矯正しようとするのは別問題。
人は100%、完璧ではありません。
表現の自由を盾にして他者を攻撃するのではなく、他者の寛容に甘えないでよ。
自由と他者の受け止め方の違いについて考える必要があり、他者が黙っているから円満な運営ができている、と自覚してほしい。
他者の寛容さで創作できている部分は否めない。
集団リンチを加えた人は、100%の人から見て、
実害がない、気持ちいいものだけをどうか表現する努力をなさってくださいね。