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 池袋暴走事故の被告が他界し、noteのお友達
ひーさんが被害者遺族の言葉を載せていらした。

池袋で事故を起こした高齢ドライバーが亡くなったというニュースがありました。
数ヶ月前に、この加害者と被害者遺族が面会し、話をしたそうです。
その加害者の言葉を受け、被害者遺族は「許すことはできないけれど、認めることはできます」とおっしゃっていました。

 この事故。
なぜか被害者遺族が誹謗中傷され、ネットで叩かれてしまった経緯がある。
「しつこい」「お金がほしいんだろう」
被害者遺族とどのような関係でネットに書き込んだのか知らないが、どうして
「許すことはできないけど、認めることはできます」とならなかったのか残念だ。

 そもそもしつこく感じるほど、被害者遺族の動向へ注視していたから執拗に感じ、お金で被害者の母子は帰って来ないのは瞭然だろう。

 しつこいのは同じ悲劇を繰り返さないため。
お金と罪は刑期と慰謝料でしか相殺できない。
許さなくていいから、一定の理解をする。
「自分が被害者遺族ならどうしていたか」


 
 被害者遺族は許さなくていいと思う。
 わたしは過去の交通事故の被害者であり、10年経過した現在も投薬は続いている。

 加害者からの医療負担はなくなり、保険の3割負担はわたしが払っているほど障害が残った。
頸椎が潰れて手足の痺れや痛みがある。

「たったその程度。死ぬよりマシ」と
万が一、言うヤツがいたら目の前でタコ殴りする。

 わたしの事故は、高齢者がノーブレーキで車体の後部へ突っ込んできた。
視力があまりない加害者は、眼科医から運転は禁じられていたのに運転したのが事故へ繋がった。

 加害者からの謝罪として電話はあったが
「今度一緒に食事へ行きませんか」
「救急車が到着するまで、ずっと側にいたのよ」
電話の向こうから加害者の笑い声がして、楽しい話など全くしていないのに
「あら、大変ね」とまるで他人事。

 救急搬送された病院は総合病院で、たまたまわたしは数日前に別の疾患でCT画像を撮っていた。

 整形外科医は
「事故による頸椎の損傷」と診断し、
ビフォーアフターの画像や診断書をもらうと、
うちの弁護士を訪ねた。
「絶対に許さない」

 理屈では
「ももまろもいつか加害者になるかもしれない。
相手は高齢者なんだから、許して差し上げろ」

 許してしまえば、わたしの心の重荷を軽くし、感情的な解放がもたらされるのも、
加害者と一緒に食事をして信頼やご縁が強くなり、より深い関係が築けるかもしれない。

 お互いが成人であるから成熟していると仮定して、相手の立場や感情を理解しやすくなるだろう。
加害者の気持ちに寄り添い、すてきなコミュニケーションが生まれる、かもしれない。

 だが、無理。

 人と人との関係は複雑で、出来事を鑑みると理解するのは簡単ではなく、深慮してわたしに新たな視点が得られたとしても、根性焼きみたいに生涯続く傷はほしくなかった。

 被害者遺族がいう「認める」で充分だ。
人間関係は相互の理解や尊重に基づいて成り立っている。最低限の努力でいいと思う。



 しかし、許すことも認めることも心情的に拒否してしまう案件ができた。

 最近noteに新規アカウントが有料記事ばかり出している。
それは現在、拘置所にいる死刑囚だ。冤罪の可能性はない。

 自らの拘置所暮らしでダイエットに成功した記事を販売しているのだが、有料記事で得たお金を被害者へ贖罪に充てるなら理解もできるが、自己顕示欲や虚栄心を満たすツールがこの有料記事なのだ。

 他のユーザーへ有料記事を書くなとは思わない。
noteはマネタイズ可能なプラットフォームだから。

 しかし、複数人も殺害した死刑囚が美容だのダイエットだの、綺麗になりたいの願望は被害者遺族が知ればどう思うのだろう。
最もしなければならないのは贖罪じゃないのか?

 同じ税金で生活する生活保護を受ける人たちは度々ネットで叩かれて、なぜかこの死刑囚だけはマスコミが特徴を褒め、死刑囚のファンまでいるという。ダイエット記事を売るとネット民は讃頌しているのか思考回路が分からない。

 わたしの気持ちでは、許すことも認めることも出来かねる出来事だ。


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