
幸せの容積、幸せの大小
よく「小さな幸せ」と聞きます。
しかし、小さな幸せは大きな幸せでもあるのではないでしょうか。
そもそも幸せに大小があるのでしょうか。
最近の社会は価値観に変化があり、
結婚や出産はなく、特に目標を持たずにいても、その日さえ良ければいいという風潮があります。
飼い猫の“なつ”は今年18歳になります。
猫の寿命を考えると、毎日一緒に生活できるのは
重みのある幸せです。
友達は年末に怪我を負い、医師からもあと少し遅れていたら命が危なかったと言われたほどの危険な状態でした。
迅速な救急対応や医療従事者の献身的なケアのおかげで、友達は命を取り留めました。
その場にいた方々や病院の医療スタッフには感謝してもしきれません。
会話できるのは広がりのある幸せと気づきました。
それまでは、“なつ”といることや友達との会話は
小さな幸せのカテゴリーにありました。
ですが、
わたしにとってはかけがえのない時間だと気づいてから、幸せは均等だと思うようになったのです。
あなたはどう思いますか?
幸せに大小があるのかという問いについて、考えたことはありますか?
幸せを「大きい」「小さい」と表現するのは、
その時に感じる感情の深みや強さ、経験のインパクトによるものだと考えます。
たとえば結婚や子どもの誕生といった出来事は、多くの人にとって人生の節目であり、一般的に「大きな幸せ」と表現されます。
対外的に向けたもの、ステータスを表しているようです。
一方、日常の些細な喜び、たとえば“なつ”と過ごす穏やかな時間や美味しい食事は「ささやか幸せ」として語られることが多いです。
日記帳へ書いて自己満足で終わるものです。
しかし、それらを本当に大小で分けられるのかというと、そうではない気がします。
なぜなら、どちらもその人にとって
「かけがえのないもの」である点では同じだからです。
幸せの本質ってなんでしょう。
上記のように、“なつ”と過ごす時間や怪我から助かった友達と会話できることが、以前は「当たり前幸せ」と思っていたものが、
今では「奇跡的な幸せ」として感じられるということ。ふれあいで得られる温かみで新しい価値を生み、視点が変わりました。
これは「幸せの大小」というのが主観で、視点や価値観によって変化することを物語っています。
もしかすると、幸せとは
「その人がどれだけ感謝や喜びを感じられるか」が本質なのかもしれません。
現代では結婚や出産といった社会的な幸せだけでなく、その日その日の喜びに価値を見出す人が増えています。
幸せの基準が多様化した結果だと思います。
わたしが”なつ”や友達との日々に幸せを感じているのは、それがわたしの人生にとっての「核」だからです。
核となる幸せは非常に強い存在感を放つものだと考えます。
幸せを分けるのではなく、どれだけその幸せを意識し、大切に思えるかが重要ではないかと思います。
わたしが”なつ”の健康や日々を慈しみ、友達との会話に感謝する気持ちを持つことで、
それが「途轍もない幸せ」だと感じられるのは、この視点を持つことで、日常が豊かになり、日々の出来事が輝きを増すと感じています。
幸せは
「自分の心にどれだけ広がるか」のようなものだと考えます。