希望を忘れず、日々の執筆を続けていきたい
来年のことを言えば鬼が笑う。
鬼よ、笑え。
2025年創作大賞に参加するか、しないか。
今は分からない。
・ 落選した際のこと (感情の深掘り)
8月末に発表されたコンテストに落ちた痛みが残り、自分で傷を舐めたぐらいでは治らず、
書くのが好きは必ずしも上手くならない結論を出している。
『なぜ、私は書くのか』というテーマで応募した際、募集要項には明記されていなかった、
期待されるスタイルや視点があったようで、結果的に後出しジャンケンのように感じた。
何万字に渡る「落ちた理由」は、取って付けた長い言い訳であり、
「物書きってシンプルに物事を伝えなくてもいいんだ」
失望と信奉者の舞いを見て、
物書きを軽蔑する自分を発見して傷ついた。
落選の理由で心に広がる虚無感が伴い、暗闇へ飲み込まれるようだった。
その後、何度もその記事を思い返し、自己否定の濁流は洪水と違ってすぐに引かないと知る。
小説や文章の書き方マニュアルも読み、並行してエッセイや小説も読んでいるし、ハムスターの視点に立つため、実際に身体を使って動いた。
周囲の音や風、地面の感触を得ながら、ハムスターがどのように世界を捉えているのかを考えた。
そして少しでも理解できた気がした。
この体験は、私の執筆に新たな視点をもたらしたはずだった。
しかし
「わたしには国語力とセンスがない。以上」
・ 無用なアドバイス
交流が嫌になり、ほとんどしてない。
感想はなく、頼んでもない評論。
ダイレクトメールから
「こうした方がいい」とアドバイスを受けた時、
それがわたしの作品に対する理解を欠いたものであることに気づいた。
聞いてもいないのに言われた言葉は、
わたしの努力を否定されたように感じ、
でも言い返せるはずもなく、心の鎖国をしている。
親切な審査員が一人ずつ感想をくれるというのを読んだ。読んでくれたかたの感想は喉から手が出るほど欲しかったが、自分の癒えない傷を持っている状況を加味して辞退した。
箸にも棒にも引っかからない、参加しないと箸や棒にすら触らない。
審査員の主観に引っかかる可能性を漠然と考えたが、先にも書いたように、わたしには国語力が致命的にない。
赤ちゃんの泣き声と同じで、赤ちゃん自身は意図があり泣いているが周囲はうるさいだけ。
赤ちゃんはお母さんがオロオロしながら抱っこをしてくれるが、大人相手だと頭がおかしい人に過ぎない。
赤ちゃんには成長がある。
しかし、わたしにはない。この違いも大きい。
メンタルが軟弱なうちは、賞レースはやらないのがいいと思う。
挫折の数だけ強くなれるメンタルがないなら。
時間が解決を導いてくれるより、ネガティブから解放されるきっかけを自分が探してくるしかない。
見つからないなら、ジッとする。
強い風を室内から見守るぐらいでいい。
でも2025年の自分が分からないから、今は
「来年も開催されるのかなぁ」しか。
・ 喜びは自分で見出す
書くことが好きだから、書いていると精神が安定して維持もできる。
喜びが全然ないと感じる中で、自分の好きなテーマやスタイルを見つけるために、日々の小さな執筆を続けている。
自分の言葉で表現する楽しさを再確認するために、精神科の主治医の言葉を励みに何度も挑戦している。
紙のノートやWordに書き散らしてもいいが、
人様へ晒すと倫理からの逸脱を予防し、より客観性を求める訓練になり、抽象的でわたしにだけ判ればいいものが、公開することで、具体性や例え話を用いる練習にもなる。
内観が独りよがりにならないように。
いざという時に他者とのコミニュケーションがスムーズに運べるように。
現在は自分のためにリハビリなのかな。
メンタルの回復には時間がかかることを理解しつつ、日々の小さな執筆を通じて、少しずつ自分を取り戻している感覚がある。
毎日の小さな気づきが、心に安寧をもたらしてくれている。
・2025年 創作大賞に向けて
2025年の創作大賞への参加は分からないものの、今は自分のペースで進むことを大切にしている。
「来春には新たな一歩を踏み出せる自分がいる」希望を忘れず、日々の執筆を続けていきたい。