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自分だけの感覚は決して手放さない「幸せへのセンサー」
子どものころの私は、人見知りで恥ずかしがり屋で人に注目されるのが苦手だった。小学校に入ったころは授業中に当てられただけで、ポロポロと泣いていた。
何が嫌なのかはよくわからないけれど、反射的に涙がこぼれていた。
先生は見かねて「じゃ、いいわ」と他の子を当てるので「もう、泣けばいいと思って」とみんなからは言われていた。
でも誰になんと言われようと、みんなの前で立って、一人で発言するほうがもっとずっと嫌だったのだ。
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吉本ばななさんは『幸せのセンサー』で子どもの頃の「絶対いやだー」とのたうち回るほどの拒絶は、
「自分の体の中にあるセンサーの最も敏感なところが何らかの反応をしたんじゃないか」と書かれていた。
決して、わがままやかんしゃくではなくて。生存本能というと大げさかもしれないけれど、危険を察知して回避する力が働いているのだろう。子どもなりにね。
当時の私には、教室にいる大勢の目が私一人に注目する、なんて生死に関わる大問題だったのだろう。泣き叫びはしなかったけれど、無言で涙を流して全力で拒否していた。
人前で話すのも注目されるのも年齢とともに慣れて平気にはなるけれど。その瞬間、センサーでキャッチした違和感や戸惑いは、大人になっても大切にしておかねばならないもの。
社会生活に順応するために、私たちは、自分の些細な感覚は不要なものとして無視するようになる。周りに合わせることが最優先。
誰もが持っているはずのセンサーも使わないでいると、反応が鈍くなる。そのうちポンコツ同然、動かなくなってしまう。
そうなると、本当の自分の気持ちがわからない。大切にしているものや幸せを感じるものも。
周りの人やSNS基準で「みんなが良いって言ってるから私も欲しい」とか「あれを持つのがトレンドだから」とか。自分にとって必要か不要かもわからずに。
幸せというのは、人それぞれの価値基準によるものだから。人真似をしても自分には幸せが感じられない場合もある。
クリスマスにディズニーランドに行くと、誰もが幸せを感じるかというと、そんなことはわからない。人による。「私は幸せを感じなかったから、不幸なんだわ」となってしまう。
自分の幸せは自分で見つけるもの。近所の公園で過ごしても幸せを感じることもあるのだから。
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今はみんなに合わせているけれど「私は本当はこう思っている」と自分で知っておく。その感覚は手放してはいけない、とばななさんはおっしゃっている。
センサーを鈍らせないためにも。
何が好きか、嫌いか、大切か、不要か。価値観や判断は、人に頼らずに自分の感覚を信じる。
そして、それが生きていく力にもなる。
私もつい最近まで自分の望みや幸せが何かわからなかったけれど。noteで自分を見つめて書いているうちに、大切に思っているものなどがわかってきた。
センサーの感度が戻ったよう。
そうすると自分に不要なものには関わらずに、大切なものだけを集めて生きていける。ぶれない。人に振り回されない。世間も人の目も怖くない。
「私にはこれよ」というものがしっかりとある。これこそが幸せな人生なのです。
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