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シューベルト「冬の旅」と萩尾望都(その2)〜パドモア&内田光子
(承前)
「冬の旅」をコンサート・ホールで聴くのは初めてだった。それを、テノールのマーク・パドモア、ピアノ伴奏に内田光子で聴けたのは幸福だった。
休憩なし、全24曲約1時間半は、あっという間に時間が過ぎた気がする。それだけ惹きつけられ、集中して聴くことになった。
「冬の旅」、ヴィルヘルム・ミュラーの詩は、様々な解釈ができるテキストで、これにシューベルトの音楽が絡んで、想像力をかき立てられる。若者と思われる主人公は、どこを彷徨っているのだろうか。愛す
る女性とは何があったのか。彼女と再び結ばれる時は来るのか、それとも彼は死に向かっているのか。
パドモアの歌と、内田光子のピアノは、聴くものを刺激する。音楽を聴いているというより、一つの体験と言うべきコンサートだった。
マーク・パドモアは澄んだ声で、歌の主人公の儚さが感じられる。ピアノは美しく、その音は歌声と同じくらい心に刺さる。“菩提樹“のイントロを聴いただけで、「今日は来て良かった」と思わせてくれた。
詩の内容も追いながら、声と音に包まれた時間は特別なものであり、「冬の旅」の世界観に浸ることができた。なお、プログラムには対訳がついていなかったので、私はiPadに歌詞の対訳を出してフォローしていた。
「冬の旅」の名盤は、バリトンのフィッシャー=ディースカウがジェラルド・ムーアの伴奏で録音した作品が定番だった。私はてっきりバリトンのレパートリーかと思っていたが、オリジナル版はテノールのキーだった。
テノール歌手のイアン・ボストリッジは、「Shubert‘s Winter Journey: Anatomy of an Obsession」という本(翻訳もありますが、めちゃ高価)を出している。この中で、彼はオリジナル・キーでの歌唱について書いているが、その中で、「冬の旅」は“暗い(dark)“な組曲で、低音で歌われることが最上であると言われてきたことについて、苛立ちを示している。(なお、本書は軽く読めるものではと思って買ったら、とてもとても難しい。それもそのはず、ボストリッジはWikipediaによると、オックスフォードで博士号まで取った学者でもあり、20代後半になって歌手業を始めた。こういう天才がイギリスには時々いるのである)
ボストリッジの言う、テノールかバリトンかと言う議論だが、私はそれぞれに良さがあると思う。ボストリッジ自身の盤(ピアノ:レフ・オヴェ・アンスネス)、前述のフィシャーディースカウ、ハンス・ホッター、パドモアはポール・ルイスのピアノで出している、などなど。今は、配信で多くの録音を聴くことができる。そのそれぞれに良さがあり、歌い手によって「冬の旅」の印象は変わる。それも、この曲の奥深さではないだろうか。
さぁ、萩尾望都「ポーの一族」である。このマンガを愛する人は、是非「冬の旅」を聴いてほしい。それが本稿の本題で、続きはまた明日
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