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著…中里恒子『時雨の記』

 この小説の文体はとても古風。

 現代文学の言葉運びとは異なります。

 だから、わたしは最初この本のページを見た時に「ちゃんと最後まで読み進められるかな?」と不安でした。

 しかし、それは杞憂でした。

 壬生の多江に対する、

 「だが……僕はやうやく今になつて、ほんとに生きてゐる氣がするんだ」

(著…中里恒子『時雨の記』
単行本版P6から引用)

 という感情の烈しさに、読み手であるわたしも心を掴まれたからです。

 そう。

 恋をすると、全てが一新されますよね。

 それまでの人生がモノクロであったかのように。

 世界が一気に極彩色になります。

 ただぼんやりと日々をやり過ごしてきた人でも、恋をすると、「生きている」という実感が湧きます。

 周りにどんなに沢山の人がいても、目は好きな人の姿だけを追いかけます。

 耳は相手のどんな小さな声でも聴きとれるように感覚が研ぎ澄まされます。

 手も足も、相手に少しでも近づきたくてつい動いてしまいます。

 心臓は早鐘のように打ちます。

 思い浮かぶのは相手のことばかり。

 それが恋。

 また、壬生の、

 「會つてどうしようなんてことは、考へなかつた、昨日會つた、今日も會ひたい、それだけのことでねえ。どうして昨日會つたから、また今日も會ひたいといふのがをかしいのか、わたしは合點がゆかない」

(著…中里恒子『時雨の記』
単行本版P13から引用)

 という言葉にも、わたしはとても共感しました。

 例えば昨日会ったばかりでも、今日会えなかっただけで、もう何日も何ヶ月も会えていないような気がして、早く会いたくて会いたくてたまらなくなりますよね。

 好きな人に対しては。

 惹かれずにはいられません。

 それが恋。

 だからこそ想いが募って苦しくて、恋なんてしなければ良かったと思う瞬間さえあるけれど、気づけばまた相手のことを心に描いてしまうものです。

 しかし、

 「いいよ、あんたのそばで死ねれば本望だ。ほかに、僕のゆき場はない、」

(著…中里恒子『時雨の記』
単行本版P203から引用)

 とまで激しい気持ちを抱きながらも、壬生と多江がプラトニックな関係であり続けたのも素敵です。

 そこには色々な理由がありますので、気になった方は是非読んで確かめてみてください。

 わたしはこの作品を読んで、「心と心を通じ合わせる大人の恋もあるのだ」と知りました。

 最後はとても切ない終わり方ですけれど…。

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