『カラマーゾフの兄弟』 – 日めくり文庫本【10月】
【10月30日】
もっとも、余はこんなおもしろくない漠然とした説明を陳立てないで、前置ぬきでいきなり本文にとりかかってもよかったのである。もし気に入ったら、みんな読んでくれるに相違ない。ところが困ったことに、伝記は一つなのに、小説は二つに分れるのである。しかも、重要な部分は、第二の小説に属している——これはわが主人公の現代における活動なのである。第一の小説は十三年も前の出来事で、小説というよりも、むしろわが主人公の生涯における一瞬間にすぎない。けれどこの小説を抜きにするわけにゆかない。そうすると、第二の小説中でわからない所がたくさんできるからである。こういうわけで、余の最初の困難はますます度を強められる。もし伝記者たる余自身が、こんなつつましやかな、取り留めのない主人公のためには、一部の小説だけでもよけいなくらいだと考えるならば、二部に仕立てたらどんなものになるだろう? そして、余のこうした生意気な試みをなんと説明したらいいだろう?
余はこれらの問題を解決しようとして、なす所を知らなかったので、ついいあらゆる解決を避けてしまうことに決心した。もちろん、慧眼なる読書は『最初からこんなことをいいそうだった』と疾くに見抜いてしまって、なんだってこんな役にも立たない文句を並べて、貴重なる時間を浪費するのだろう? といまいましく思われるに相違ない。しかしこれに対して余は正確にこう答えるであろう。余が役にも立たない言葉を並べて、貴重なる時間を浪費したのは、第一に礼儀のためであるし、第二には、『なんと云っても、あらかじめ読者にある観念を注入することが出来る』というずるい考えなのである。
もっとも世は自分の小説が『本質的統一を保ちながら』自然と二つの物語に分かれたのを、かえって悦んでいる。第一の小説を読了した読者は、もう自分の考えで第二の小説にとりかかる価値があるかないかを決定されるであろう。もちろん、誰とてなんらの束縛を有しているわけでもないから、最初の物語の二頁あたりから、もう永久に開けて見ないつもりで本を投じてもかまわない。しかし中には公平なる判断を誤らないために、ぜひ終りまで読んでしまいたいという優しい読者もある。例えば、すべてのロシアの批評家の如きそれである。こういう人々に対しては、なんといっても心が平らかになる。とはいえ、これらの人々の厳正かつ忠実なる態度にも拘らず、余はこの小説の第一挿話の辺で、書物を投げ出すことの出来るように、最も正当なる口実を提供しておく。序言はこれでしまいだ、余はこれが全然よけいなものだ、ということに同意するけれど、もう書いたものであるからそのままにしておく。
されこれから本文にとりかからねばならぬ。
「著者より」より
——ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟 第一巻』(岩波文庫,1957年改版)34 – 35ページ
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