砂塵に霞む文字〜佐藤純彌 監督『敦煌』(1988)
今年2023年7月19日のWOWOW放映で、日本映画『敦煌』(1988)を見た。1988年と言えば、我が国はバブル経済の真っ只中。制作を決定した70年代から10年以上を経て、80年代終盤に完成とのこと。費用も、35億円と巨額に膨れ上がったという。
ただし、本作視聴は当方初めて。というのは、公開当時から昨今まで、巷の映画評が余り芳しくないとの印象を持っていたからだ。
遅ればせながら、感じたことなど。
映画は思ったほど悪くなかった、というのがザックリとした感想。
ケチをつけようと思えば、ツッコミどころはかなりある。しかし、まず全体として真面目に作ってあるのは評価点。確かに、カネがかかっている印象。それから、中国ロケを敢行しただけあって本物感が漂う。砂漠の風景が、ロマンチックでもあり、熾烈でもあり、ひたすら美しい。
マイナス点は、多くの人が違和感を持つところかと思うが、日本人が異域の人々を演じているキャスティング。俳優はどうしても、同胞に見えてしまう。戦闘シーンなど、日本の戦国時代の合戦が、外国で繰り広げられているような浮き上がり感がある。現地撮影なのだから、かの地の人々の演技がほしいところ。しかし、それは無理な注文というものだろう。日中友好の時代だったとはいえ、時代の制約を感じさせ、また歴史物にありがちな限界が見えてしまう。時代劇の難点、これは日本映画に限ったことではない。
このようなネガティブな指摘の余地があるものの、漢人の主人公・趙行徳を演ずる佐藤浩市は頑張っているし、同じく漢人の闘将・朱王礼が役どころの西田敏行は気を吐いている。有名俳優の顔も見える。元気だった日本が産んだ作品ということか。
原作は井上靖『敦煌』(1959)である。1960年に、毎日芸術大賞というのを受賞しているから、当時評価が高かった作品と想像する。
この歴史小説は、1970年代、中学生か高校生の時、世界史の勉強を兼ねて読んだ。井上氏は、『氷壁』(1957)などの現代を扱った作品から、『敦煌』など歴史小説まで、多彩かつ多作の作家であった。当方、『あすなろ物語』(1954)、『しろばんば』(1962、1963)、『夏草冬濤』(1966)など自伝物も愛読し、本棚に同氏のたくさんの文庫本を並べていたものだ。
井上靖と言えば、高校時代にちょっと苦い経験が。同級生の女の子に同氏作品のファンがいて、「どの小説が好き?」とたずねられた。「『氷壁』かな。」と応えたところ、この女子、ガッカリの表情だったのである。秀才の彼女、フェイバリットは『楼蘭』(1958、井上氏「西域物」の一編)とのこと。この格調高い作品は、もちろん繰り返し読んでおり愛着を持っていたが、彼女の嗜好に「フン、気取ってやがる」と感じたのである。まだ純情素朴だった当方、単純に『氷壁』のメロドラマに感動していたのだ。
さて映画に戻ると、原作と細部は異なるが、大筋を尊重していると言ってよい。物語は、チベット系・タングート族の西夏に焦点がある。西夏の統率者・李元昊は、1038年に「大夏」を建国。同国はチンギス・ハンに滅ぼされる1227年まで200年間近く続いたという。領土は、敦煌の東(現在の中国西北部)で、首都は興慶(現在の銀川市)に位置していた。
ストーリーは、この西夏を巡って展開するが、中でも「西夏文字」が一つのポイントとなっている。李元昊は、国家成立には文字を持つことが必須と考えている。同じく「西夏文字」に関心を抱く趙行徳。両者の行路が、砂漠で交錯していく。
趙行徳との問答では、李元昊に言葉について語らせている。
この箇所は、小説とは異なり、佐藤監督が強調している印象がある。英語、中国語、日本語など他言語の習得に関して、思い当たることはないか。
映画は全体的にさほど悪くないと述べたが、一方で物足りなさを感じさせるのは否定できない。
では小説の方はどうか。
原作を改めて読み返してみた。面白さという点ではほぼ満足だが、映画同様に食い足りなさを感じる。映画の不満点は、本に由来するのではないか?
それは、当初「文字」を中心に進んで行くと思われた物語が、途中で「仏教」にポイントがズレていくからである。宗教は無視できない歴史だったのだろう。しかし再読にあたり、「言葉と国家」というテーマに期待していた当方、やや梯子を外された感があった。このような「言葉」と「宗教」の重層的構成は、映画も小説もほぼ同じである。
漢字に似た構造を持つとされる「西夏文字」。6,000字と言われるこの不思議な形状の文字群は、国家存続にどのような寄与をしたのか?同じく漢字文化圏にある、または同文化の影響を受け、新たに文字を制定した国と比べて、使われ方や定着状況はどうだったのか?
「西夏文字」や「西夏語」が、国家滅亡後も300年間くらい使われていたことは、今日わかっているらしい。しかし結局、為政者の意図に基づき作られた文字は、国が滅びその後発話が消滅するとともに息絶えたらしいのである。
小説が書かれた1950年代には、「西夏文字」の解読は進んでいなかったのだろう(解読は60年代)。謎だらけの言語に斬り込んだ井上氏。その先見性は称賛されるべきである。
小説や映画の背景を知れば、作品の評価も変わるかと思う。ストーリーは波乱万丈で面白く、エキゾチックな女性も登場し興味をそそられる。かつて井上靖の語りを体験した世代にとって、書籍とイメージは懐かしくもあり、理解も容易な内容であることはまちがいない。
ただ現代の若者が予備知識なしに、佐藤純彌監督の映像作品に接した時、どのような感想を持つだろうか?さらに、このロマンチックな井上文学を読んだ時に、今の若い世代が感動を得られるだろうか?
ところで、あの「敦煌」の地は、今どのような変貌を遂げているのであろうか?
1000年近い昔の物語には、ウイグル族も登場する。映画や原作で描かれた彼らは、現在どのような境遇にあるのか?新疆ウイグル問題が、昨今のニュースでしばしば取り上げられていることは言うまでもない。歴史は断絶していないのである。
2023年盛夏、何十年も前の映像・文学の作品が、現代世界に連綿とつながる歴史事象を再認識するきっかけになり得るのでは?と感じた。賞味期限切れかと思いきや、かすかな期待を持ったのである。