持続できない友だち
私には友だちと呼べる人がとても少ない。
友だちに理想を求めすぎているのかもしれないし、友だち作りがそもそもヘタなんだろうと思う。
自分が思う"ココからが友だち”という線を引いていて、その線に入ってこれた人だけを友だちと呼んでいる。
ただ一旦友だちと呼べるような関係になれたと感じた途端に心を許してしまい、距離を近づけすぎ時には尽くして付き合ってしまう。気づいてブレーキをかけた時にはもう遅いことが多い。
二十代には恋人のような関係になって自滅させてしまった友だちもいれば、ボタンの掛け違いみたいにお互いの言葉を誤読し理解できず、お別れをした友だちもいた。
あの時一緒に旅行にさえ行かなければ、未練たらしく言い訳のような手紙を書かなければ、素直におめでとうと言っておけば…。
振り返って後悔することもあるし、今でもときどきfacebookで縁が切れてしまった友だちを検索してしまう時がある。
友情は生き物に似ている。ほっときすぎても死ぬし、過保護に世話してもダメにする。
持続できない友情に四十代になってまで悩むとは思わなかった。
去年、また数少ない友だちを失った。正確にいうと蜘蛛の糸ほどで繋がっている。
またどうしてこうなってしまったのか…つくづく自分が嫌になる。
そんな時、私はすがるように言葉を探す。その行為は祈りに近い。
山崎ナオコーラさんはXにこう書いている。
『私には今、友だちがひとりもいないが、ときどき遠い昔を思い出して、
「あの人のことは永遠に応援する」と考えたりして、友だちではなくなっても友情だけは片想いでもいつまでもあるのかも、と思ったりする。』
吉川トリコさんはおんなのじかんというエッセイの中でこう書いている。
『消耗品といったら語弊しかないが、ほんのいっときでもいっしょにいてたがいに必要とし必要とされたのなら、その時間こそがかけがえのない宝物なんじゃないかって。花びらを閉じ込めたバスボムも、甘く官能的な香りのキャンドルも、舌の上でしゅわりと溶けるアニスの砂糖菓子も、儚く消えてしまう消耗品だけれど、ほんのいっときでも心を慰めてくれるじゃないか』
そう。そうなのだ。
友だちとずっと同じ距離で接することは難しい。なぜなら友だちも私も環境や考え方も常に変わっていくから。
楽しかった瞬間は一瞬で二度とやってこない。
分かっているのにその儚い美しい一瞬を何度も求めてしまう。
ただひとつでもその美しい一瞬があれば、生きていく私の背中を押し続けてくれる。それでいいじゃないか。切れてしまった友だちのことを遠い場所からそっと思い出して応援し、私は私でときどきあの美しい一瞬を懐かしく味わいながら歩いていくしかない。でも懐かしく思える一瞬があるだけ幸せだともいえるのではないか。
持続できない友だちについて悩む誰かがすがる言葉を探してここに辿り着き、誰かひとりでもちょっとだけ胸がスッとなってくれたら嬉しい。
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