在野研究一歩前(31)「読書論の系譜(第十六回):加藤熊一郎『普通學獨修指針 一名 普通學大意』(國母社、1895)③」
前回に引き続き「第四章 讀書作文法 第一節 讀書法」の中身を見て行きたいと思う。
「さればとて吾人は一二の書をのみ守れよと云はず咀嚼し理解し得る限りは多く讀むも妨げずただ生嚙にて多くを呑み込むを咎めたるなり、バーク曰く讀書すること就中多讀するは善し然れとも之を自己心中に於て無究に變化する力及び之を機會に應用する力は遙かに讀書に勝れり、實際應用の力なくて何程多く書を讀みたりとて何かわらむ、青年の人々進むことを知て退くことを知らず多く讀まんといふ一心より却て思はぬ害を來すものなれば進んで多く讀まむより退て深く思ふをよしとはするなり、朱子曰く今人書を讀む只だ明日未だ讀まさる所を見んを要し曾て前日讀む所を細繹せずと」(P59)
⇒「熟読」は「読書」において重要な要素であるが、だからといって一二冊の範囲内に制限せよというわけではない。理解が十分になされる範囲であれば、種々の本に触れてもよいのである。「バーク」という人物の言葉をもってすれば、「多読することはときに大切だが、一冊一冊丁寧に読み込んで、そこから得られた知識をもとに応用していくことの方が重要である」という。また、ここでいう「応用」をする力が未だ身に付けられていないのならば、いくら多くの書に触れたところで意味はないとも指摘する。大事なのは「多くの書に触れる!」という意識ではなく、「読書から得られた知識を応用する!」という意志なのだ。「読書においては、一つの書に向き合う継続性が重要である」とは朱子も述べている通りである。
「讀書の要盖し四、毛穉黄は善くこれを言明せり曰く
書を讀む四要あり一に曰く収、心を將て収めて身子裏に在り、身を將て収めて書房理にあるこれなり、
心茲にあらざれば見れども見えず思想散漫なる時は如何に書を讀むとも何の得る○かあらむ心を静め氣を平かにして讀む書中の事歴々として會得す
二に曰く簡、惟れ簡惟れ熟、若し治むる所の者多ければ則ち力を用る多く而して功を奏する少し精神疲れ歳月耗ゆ
岐を分ち事を繁にす讀書の能事にあらす簡にして熟を旨とすること讀書の要なれ、あれもこれもと繁に流るヽは青年の弊、心すべき事なり
三に曰く專、心を一處に置く事として辨ぜさるなし其の心を二三にす必ず成就けん
こは第一と同じく思想散漫の不可なるを示すもの次は
四に曰く恒、心を專らにし志を一に致すと雖苟くも恒なく時としては作し時としては輟め初め有て終りなし亦た成すなきなり故に恒を存す尤も要なり
恒あるはいとむつかしきことにて中廢は免れぬところなれどこは功を無にすることにて折角會得したる事も終には忘却了するに至るべし以上四個は獨修者は勿論總ての學者か忘るべからざる要件なりとす、」(P59~60)
⇒この引用文では、「毛穉黄」という人物の言葉が紹介されている。「毛穉黄」については、岩垂憲徳編著『先賢讀書法』(啓成社, 1936)の中に「毛穉黄讀書法」という論稿が掲載されているのが分かったのみである。人物に詳細については調べることができなかった。
毛穉黄は「読書の要」として、四つの要素をあげている。
一つは「収」。読書に取り組む際は、身心ともに「安定」していることを前提とすべきである。
二つ目は「簡」。読書から知識を得る際は、できるだけ「簡潔」を目指すべきである。「簡潔さ」は無駄な心身の消耗を生じさせないで済むからだ。(ただし、ただ「簡潔」にするだけでは駄目で、そこには必ず「熟」の精神も必要。)
三つ目は「專」。読書における「專讀」の重要性が説かれている。
四つ目は「恒」。「ある一つの物事に専念すること」には「変わらないでいる」という「恒久性」が求められる。物事を続けることには常に「形骸化」という危険がつきものだが、そうならないように注意して「読書」に励まねばならない。
以上、「収」「簡」「專」「恒」という四つの「読書の要」を紹介した。加藤熊一郎曰く、この四要素は「学問に取り組む者」にとって必須の心得だそうだ。
以上で「「在野研究一歩前(31)「読書論の系譜(第十六回):加藤熊一郎『普通學獨修指針 一名 普通學大意』(國母社、1895)③」」を終ります。
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