基準
「わたし、負け組なので」と自称する人間が苦手である。
試されている気がする。「そんなことないよー」と励ますか、「自分も負け組だなー」と同情するか。
気になるのは、何をもって「負け組」とするか、その基準が共有されていると思われている点だ。これは心外で、そもそも自分のことを「負け組」と評する行為自体に抵抗がある。今はそれほどでもないが、二十代成り立ての私がこの場面に遭遇したら、自称した人間とは距離を置くようになっていただろう。
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相手から、「○○って、勝ち組だよな」と言われたことは、おそらく人生で一度もない。言われてみたいとも思わないが、もし評される機会があれば、「どこがどう勝ち組なの?」と訊ねてみたくはある。
引いたのは、写真家・長島有里枝のエッセイ集からの一節。長島が他者から「勝ち組」と括られた際の"モヤモヤ"が綴られている。
長島自身は「勝ち負け」を判定することに意味を感じていないが、上記の場合、結婚していることや子どもがいることが基準となって、「勝ち組」の枠内に入れられてしまう。違和感は覚えたものの、そこで抗議の声をあげるほど「基準」を否定しきれない自分もいる。
感染症の流行、戦争、災害……。2020年代を振り返ると、「ここまで生きてきただけですごいね」という褒め言葉が、より沁みてくる。
勝ち組・負け組という概念に囚われて一喜一憂などせず、直向きに自分の生を味わっていきたい。
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