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基準
「わたし、負け組なので」と自称する人間が苦手である。
試されている気がする。「そんなことないよー」と励ますか、「自分も負け組だなー」と同情するか。
気になるのは、何をもって「負け組」とするか、その基準が共有されていると思われている点だ。これは心外で、そもそも自分のことを「負け組」と評する行為自体に抵抗がある。今はそれほどでもないが、二十代成り立ての私がこの場面に遭遇したら、自称した人間とは距離を置くようになっていただろう。
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相手から、「○○って、勝ち組だよな」と言われたことは、おそらく人生で一度もない。言われてみたいとも思わないが、もし評される機会があれば、「どこがどう勝ち組なの?」と訊ねてみたくはある。
「先日、とある座談会で、勝ち組だからいいですよね、と言われた。ほほう、そうか。わたしは勝ち組だったのか、とちょっと驚いたと同時に、なんとも情けない気持ちになった。勝ち組と呼んでもらうための基準を、自分の人生が満たしているとは思えなかったが、ひと通り押さえてるでしょう、と言われればそうかもしれず、否定できなかったからだ。
その場にいた三人のうち、一人は既婚者だった。勝ち組ですよねと言った人は、その言葉を彼女に向けたのだったが、子供のいるわたしもそこに含まれているのが雰囲気で伝わってきた。」
(長島有里枝『こんな大人になりました』集英社、P84)
引いたのは、写真家・長島有里枝のエッセイ集からの一節。長島が他者から「勝ち組」と括られた際の"モヤモヤ"が綴られている。
長島自身は「勝ち負け」を判定することに意味を感じていないが、上記の場合、結婚していることや子どもがいることが基準となって、「勝ち組」の枠内に入れられてしまう。違和感は覚えたものの、そこで抗議の声をあげるほど「基準」を否定しきれない自分もいる。
「「勝ち組」は子供や夫の話をしがちだけど、それが日々の中心だからであって、独身者を羨ましく思っている部分もいっぱい。四十超のいまとなっては、どちらを選ぶという話でもない。ここまで生きてきただけですごいねとお互い褒め合って、あとは神のみぞ知る、でいいんじゃないかしら。」
(長島有里枝『こんな大人になりました』集英社、P85)
感染症の流行、戦争、災害……。2020年代を振り返ると、「ここまで生きてきただけですごいね」という褒め言葉が、より沁みてくる。
勝ち組・負け組という概念に囚われて一喜一憂などせず、直向きに自分の生を味わっていきたい。
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