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仮面

 人から、「小学生の頃、休み時間は本ばかり読んでいた」とか「中学時代、作家の〇〇の作品は一通り読んだ」みたいな話を聞くと、羨ましくなる。
 それは、できるだけ早い時期から読書を始めていれば、その分多くの作品に触れることができるから、という理由もなくはない。ただ量の問題は、四六時中本を読み続けていれば、いつから始めても何とかなる。大学に入ってから読書を始めた私の実感も、それに近い。

 読後感というのは、読者の年齢や置かれた環境によって違ってくるというのが私の考えで、「小学生の私」には「小学生の私」固有の読後感があり、「20代半ばの私」には「20代半ばの私」固有の読後感がある。
 これに関しては、量の問題とは異なり、あとになって時間をいくら費やしても手に入らない部分がある。「小学生の私」の読後感は、「小学生の私」にしか味わえないもので、今からジタバタしても時すでに遅し、だ。

 私の抱く羨ましさは、年代ごとの「読後感」を比較できる、その営みに向けられている。私の場合、一番古くても、「大学一回生の私」の読後感しか引っ張ってくることができない。

 冒頭から長々と悲観的なことを綴ってしまったが、「大学一回生の私」の読後感との比較であってさえも、色々な発見がある、という話をしておきたい。

「ひとが、むなしく
 かすかに呼吸(いき)をひきとるとき
 そのひとの顔から
 マスクが、はずれる
 よろこびに焼けただれた色。
 孤独な時間にさらされた皺の起伏。
 殺人者の鼻。
 ありふれた二つの空洞な眼。
 音も、たてずに
 ふうわりと
 はずれていくマスクの下から
 そのひとのデスマスクが
 もうれつな速度で沈んでいく。ーー」
『長谷川龍生詩集』思潮社、P87)

 引いたのは、長谷川龍生の「マスクの存在」という詩の一節。
 私はこの詩を大学一回生のときに初めて読んだわけだが、「読んだ」という表現が不適切なくらい、自分の中に何の印象も残らなかった。
 当時は「詩集」全般を読み始めたばかりの頃で、詩をどういうスタンスで読んでいくのか、まだまだ定まっておらず、あやふやだった。多くの詩集を、ただ字をなぞるだけで「読んだ」ことにしてしまった感覚があり、その後大半を読み直すことになる。
 その読み直しの中で、特に印象が変わったのが『長谷川龍生詩集』であった。特に「マスクの存在」は、なぜ初読時にスルーしてしまったのか分からないほど、じわっと心身に染み込んできた。
 人は個々の場面に応じて、マスクを使い分けて生きている。この「使い分けて」という感覚は、慣れとともに失われていき、気づけば取り外し不可能なものとして、身体の一部になる。そのマスクから解放されるには、死の時を待つほかない。ーー
 この詩に衝撃を受けたのは、私が「死」というものに対して、初めて「解放される」というポジティブなイメージを持つにいたったからだ。「死ぬときって、気持ちよさそう」という言葉が頭に浮かんできたときには、我が事ながら唖然とした。
 普段考えもしないようなことを、読者の頭に喚び起こす。「マスクの存在」は、詩が持つ喚起力に気づかせてくれる一篇となった。




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