見出し画像

ネット広告

 日々大量に浴びすぎていて、あえて話題にもしないものに「ネット広告」がある。
 ネットサービスの多くは、無料で利用できる代わりに、数秒間ネット広告を見るよう求めてくる。一つひとつ広告を真面目に見ていたら埒があかないので、いかに頭をシャットダウンして広告をスルーするか、その技術を磨いていく。
 有料会員になれば広告から自由になれますよ、という謳い文句に惹かれるには、あまりに鍛錬の時間を持ちすぎた。そのアピールだけで、有料会員になろうとは思わない。

 先日友人の口から、珍しく「ネット広告」の話が出た。祖母が広告に騙されて、シミやシワの除去を謳う化粧品(?)を買いそうになっていたという。祖母から見せられた広告は、明らかに過剰な演出がなされていて、フェイクと呼んでいい代物だった。「なんであんなのに騙されちゃうんだろ」。友人はがっかりしたようだ。
 でもこれは、友人の祖母の問題というよりも、世代の問題であると思う。小学生のときには、すでにインターネットが身近にあり、数多のネット広告に触れ続ける生活を送っていれば、自然と「これは怪しい……」とアンテナが働くようになる。

「みなさんは毎日スマートフォンで宣伝や広告を受け取りますね。噓をついて興味と注意を引こうという作戦です。正真正銘の噓というものがどこで始まりどこで終わるのかを知るのは、いつも簡単とはかぎりません。どんな広告も、売ろうとしている商品が他よりも良いものだと言います。」
ジャン=リュック・ナンシー著、柿並良佑訳『噓の真理』講談社選書メチエ、P20)

 哲学者のジャン=リュック・ナンシーは、「噓の真理(ほんと)」という遊び心ある著書の中で、広告と噓の関係を上記のように述べている。
 この指摘から第一に分かることは、ネット広告を浴び続ける私たちの生活とは、同時に、噓に晒され続ける生活でもあるということだ。そう捉え直すと、たとえ当人が広告をスルーできていると思っていたとしても、ストレスを受けることからは免れえない。

 ナンシーは著書の別の箇所で、「噓をつくときは、誰かへの信頼を引っ込めている」(P22)と語る。ネット広告を展開する企業の多くは、顧客から信頼をかちとるよりも、いかに言いくるめて商品を購入させるかに集中している。
 こういう殺伐とした空間は、いつまで存在し続けるのだろう。私がヨボヨボのおじいちゃんになっても、なおネット広告と対峙している未来を想像すると、ため息が出る。



※※サポートのお願い※※
 noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。「本ノ猪」をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。
 ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集