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無駄

 物事の良し悪しを、「役立つ/役立たない」で判断する人間を目にすると、「息苦しくないのかな」ととても心配になる。

 実用性の物差しを振りかさず人間は、その物差しの餌食になる危険性を常に負っている。「役立たない」とジャッジする人間自身が、別の人間から「役立たない」と否定されることがありうる。
 そもそも「役立つ/役立たない」の基準自体も曖昧で、人心・時代状況の変化に伴い、ころころと内実が変わる。常に「役立つ人間」と評価されるために払われる意識を想像すると、そこにのびのびとした生活が広がっているようには思えない。
 いっそ、他者を「役立つ/役立たない」でジャッジするのをやめることで、自分もその軛から解放されてみるのはどうだろうか。私はそちらの方が、圧倒的にマシなように思える。

 「ムダ」の豊かさを主張する、文化人類学者の辻󠄀信一は、著書の中で次のように語っている。

「ムダをはぶくことが重要視されている。経済の世界では当然のこととして、いまではそれが、個々人のシンプルな生き方の枢要であると考えられている。断捨離、ミニマリズム……。しかし、それが本当のシンプル・ライフを意味しているのだろうか。ぼくはそうは思えない。
 断捨離派もミニマリストも、ムダをはぶけるだけはぶいて、時間やスペースを節約し、自分の自立度や自由度を高めることを目指しているように見える。しかし、どうだろう。まず、彼らが暮らしているのは都会のなかだろう。彼らがはぶいたはずのムダはしかし、魔法のように消えてなくなってしまったわけではない。」
辻󠄀信一『ナマケモノ教授のムダのてつがく』さくら舎、P31)

 徹底的にシンプル化された生活を一望すると、その「シンプルさ」が、いかに都市の複雑なインフラ網によって支えられているかを無視することはできない。「シンプル」なのはあくまで表面上だけであって、誰かがそうでない部分を確実に担っている。
 また、生活のシンプル化は、生活の画一化にもつながっていく。「役立つ/役立たない」という単純な物差しで、事物の要・不要を判断することをやめないかぎり、日常生活の中に「個性」を維持しておくことは難しい。

「何かが「わかった」と思った瞬間に、その「わかった」が、じつはまだわかっていない数々のことを覆い隠してしまう、という危険もある。「わかった」のではなく、「帳尻を合わせた」だけなのだ。それは解決でもなんでもない。
 問題は、その「帳尻合わせ」や「わかったつもり」が、現代世界で幅を利かせていることではないだろうか。そしてそれは、ネガティブ・ケイパビリティが減退して、ポジティブ・ケイパビリティ(問題に答えを出したり、問題を処理したりする能力)ばかりがもてはやされているからではないだろうか。」
辻󠄀信一『ナマケモノ教授のムダのてつがく』さくら舎、P87)

 いかに効率よく学ぶか、という点にばかり注意が向くと、すでに結論が出ているもの、知識として吸収しやすいものばかり学びの対象にしてしまう。考えても考えても、一つの結論が出てこない、「分からない」状態の継続が要求されるものは、効率性に反するものとして省かれてしまう。
 生活のシンプル化と同様に、ここでも画一化が生じる。学びの効率化のために、他者により咀嚼され、提供される知識は、総じて単純でオリジナリティがない。無色透明な知識を丸呑みするぐらいなら、分からないなりに自分で咀嚼してみた方が、得られるものは多いと思う。

 辻󠄀は本書において、「愛とは相手のために時間をムダにすること」(P234)という結論を出している。
 お金・時間を費やした分だけ、相手に見返りを求める態度からは、継続的な関係性は見えてこない。常に「損得勘定」がベースになり、ときに尽くし、ときに頼りきる、という柔軟な関係が結べなくなる。

 効率性や実用性とは距離を置いて、ヒトやモノと向き合っていきたいものだ。



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