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得意
本の中で「読書感想文」が語られるとき、十中八九叩かれている。
軽く冷笑されるか、論理的に詰められるか、とにかくものすごい嫌われようだ。
私自身「読書感想文」が嫌いであったから、庇いたくても庇いきれない。むしろ批判者側に同調して、溜飲を下げてしまっている。
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「読書感想文」を批判する人の多くは、感想文に対する苦手意識を持っていた。ということは、仮に得意だった人から意見を聞けば、レアな積極的評価に接することができるかもしれない。
そこで紹介したいのが、作家・辻村深月の「読書感想文」という文章である。
「私は子どもの頃、読書感想文が得意でした。もともと本が大好きでしたし、文章を書くのも得意だったからかもしれません。ただ、実は、書いていて「楽しい」と思ったことはほとんどありませんでした。」
(辻村深月『あなたの言葉を』毎日新聞出版、P157)
好き・楽しいといった感情は、何かが「得意」であることの前提条件とはならない場合がある。辻村は、「読書感想文」において何が要求されているのかを把握することによって、うまくやり過ごしていった。
「子どもらしい」「前向きな」「ちゃんとした」ことを書くことが、読書感想文には求められており、素直な感想など必要とされていない。つまり、コツさえ摑めば「得意」になれるーー。
行き着いた結論に、違和感を抱いていた辻村は、高校時代、学級日誌を通して先生に疑問をぶつけた。「読書感想文って必要でしょうか?」といった旨の質問を。
次に引くのは、その質問に対する、副担任(担当教科は国語)からのアンサーである。
「「意見ありがとう。でも、私はそうは思いません。読書感想文は必要だと思います。宿題としてであっても、それをきっかけに、一年に一冊しか本を読まない子が確実にその一冊を読むこと、その本を通じて文章を書くことには意味があります」」
(辻村深月『あなたの言葉を』毎日新聞出版、P159)
内容に納得できるかといえば、答えは否である。「読書感想文」が、普段本を読まない子の読書の機会として、うまく機能しているようには思えないからだ。(私が、その機会を上手に活かせない学生であっただけかもしれないが。)
ただここで注目すべきは、答えの内容よりも、答えたことそのものにある。
「読書感想文」が嫌われてしまう根本には、なぜそれを実施するのかの明確な説明が乏しく、とにかく宿題なのだからすべし、といった形で、することを半ば強制されるからである。
上記の例のように、真摯に「読書感想文」の意義を説明する先生が増えれば、多少なりとも嫌悪の情は薄れていくのではないかと思う。もしかしたらその先に、「読書感想文は不要である」という結論が待っている可能性もあるが。
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