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硬貨

 私は子どもの頃、一枚の硬貨にドキッとさせられたことがある。
 夏休み。生まれ故郷に帰省して、親戚の子どもたちとおもちゃ屋さんに行ったときのこと。トレーディングカードを購入した際に出たお釣りの一枚に、目が釘付けとなる。
 百円玉の表面に、赤ペンでニッコリマークが書かれていたのだ。
 今となっては何とも思わないが、当時の私は、お金(紙幣や硬貨)に手を加えることは、道中のお地蔵さんの頭部を蹴り上げるぐらい恐ろしいことだと思っていた。なので誰とも共有できず、使わないで財布の中にしまっておくしかなかった。

 月日が経つと、今度は、ちょっと手を加えただけで、この世に一枚しか存在しない特別な硬貨が生み出せるということに、なぜか興奮して、一円玉に自らニッコリマークを書いて、近所の駄菓子屋で使ってみた。すごいことをやったった、という感覚だけは、今でも覚えている。
 数日後、その「一円玉」とは、小学校の校庭で再会する。遅れて遊びにきた友達の一人が、「お釣りの一円玉に、なんか書いてあった」と見せてくれた。彼は駄菓子屋で買い物をしたばかりだった。
 ああ、世界は狭い。

 こんな昔語りをしてしまったのには、わけがある。
 最近読んだ、作家・小山清の作品集に、お金をモチーフにしたユニークな短篇が収録されていたからだ。

「……私が世の中に出たのはそんなに遠い昔のことでもないのですが、いきなりいろんな人の手から手に渡って、次から次とさまざまな人の心や世間の有様を見てきたせいか、みじかい間にひどく老け込んでしまったような気もしています。ごらんの通り私は皺くちゃです。私は人間ならば、さしずめ生活にくたびれた中婆さんのような見かけをしていることでしょう。申しおくれましたが、私は一五六六三八号の百円紙幣です。どうぞ皺のばしして私をとくと見てやって下さい。ほかの仲間と同じように私の表にも、あの柔和なお顔をした聖徳太子さまの肖像がついております。」
小山清『小さな町・日日の麵麭』ちくま文庫、P339)

 短篇の題は「紙幣の話」。主人公は、時代を感じさせる百円紙幣である。
 子どもの私には想像力が足りなかったために、私の生み出した「一円玉」の視点から、その行方を空想してみることはできなかった。
 私は「一円玉」を駄菓子屋で使い、その「一円玉」はお釣りとして友達の元に渡っていく。もしそこで「一円玉」の視点に立つことができていれば、まだ旅は始まったばかりであることに気づけただろう。例えば友達が、その「一円玉」をスーパーマーケットで使えば、またお釣りとして、誰かの手に渡っていく。

 こう考えてみると、あの「一円玉」の旅は、まだまだ続いているのかもしれない。
 ある日、お釣りとして受け取った一円玉に、ニッコリマークが書いてあったら……いつの日か再会が果たせるといいなあ。



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