パロディ
先日、知り合いの中学生(以下、Yくん)に漫画を勧める機会があった。十代の頃に読んでいたものを紹介してほしい、と。
漫画雑誌を買っては、クラスメイトと回し読みしていた学生時代を振り返りつつ、幾つか浮かんだタイトルをYくんに送る。
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数日後、紹介した中の一つを、十数巻分読んだというメッセージが届く。タイトルは、空知英秋『銀魂』。お勧めしたものの中でも、特に難なく楽しめるだろうという確信があったので、早速感想を訊ねてみる。
予想に反し、「全体としては面白かったけど、高度すぎてついていけないシーンもあった」という感想が届く。「高度すぎて」というのは、どういうことだろう。『銀魂』の中に高度な笑いが無いとは思わないが、どこにそう感じたのかが気になって、質問する。
Yくんが高度さを感じたのは、『銀魂』の中でしばしば展開される「パロディ」の要素。例として挙げられたのは、「森田一義アワー 笑っていいとも!」のパロディ。私の世代にとっては、誰もが一度は見たことのある人気番組だが、中学生の子にとってはそうではない。番組が終了したのは2014年であるから、番組のことを知らない子どもがいるのも納得ではある。
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かつては難なく笑えていたネタが、ある世代以降の人たちには「高度」にうつる、という現象は興味深い。そういう要素を色濃く持つ「パロディ」という表現形式にも関心が向く。
美術評論家の成相肇によると、視覚文化において「パロディ」という形式が目立ち始めたのは1960年代。ジョージ秋山や永井豪といった漫画家が、その先鞭をつける。
大衆化が進んだのは1970年代に入ってからで、その牽引役を務めたのが、雑誌『ビックリハウス』だった。
古本まつりの雑誌コーナーを漁っていると、ときどき1970年代の雑誌を見かけることがある。中身が気になって捲ってみると、頭から尻まで、パロディ三昧。読者投稿欄もパロディネタで盛り上がっている。
おそらく当時は、お茶の間レベルで知られていたコンテンツが「パロディ」されているのだろうが、数十年を経ると、ほとんど知っているものがない。
雰囲気で笑えはするけれど、元ネタのどこをどう弄っているから面白いのか、詳しい文脈が摑めない。まさに、Yくんが『銀魂』を読んだときと、同じ状況に立っている。
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現在の「パロディ」の主戦場は、紙ではなく動画となっている。そこでは、「再生数」や「コメント数」といった形で、パロディのクオリティをはかる指標が可視化されている。
今後も「パロディ」は、カルチャーを盛り上げる表現形式の一つとして、重要な役割を果たしていくことだろう。
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