[高山祭]江戸期のスーパー彫刻家!谷口与鹿の超絶技巧(飛騨高山)
谷口与鹿の彫刻家人生は15歳のころ受けた衝撃によって始まったという。すぐに花開いて、生き急ぐように駆け抜け、43歳という早過ぎる年齢で世を去る。その間に多くの不朽の名作が残された。
19世紀前半、山王祭の屋台・五台山に諏訪の宮大工、立川和四郎の彫刻が登場し、一気に高山祭の「屋台の彫刻」が進んでいくことになるのだが、その新鮮な美術に心を奪われたのが与鹿少年だった。高山の宮大工の家に生まれ、幼いときからそうした環境で育った少年は彫刻に夢中になる。並々ならぬ素質があったのだろう、それからほどなく17歳のデビュー作が山王祭の屋台・琴高台を飾った。「波間に泳ぐ鯉」だ。
「日本画の大御所、前田青邨氏が戦後に高山祭に訪れ、屋台の彫刻のなかで最高作は琴高台の鯉の彫刻ですね、と感想をもらしたといわれます」と東さん。
それから7年後、才気あふれる与鹿は、大輪の花を咲かせる。山王祭・麒麟台の「唐子群遊」だ。東さんにとって与鹿の最高作は? の問いに間髪を入れずに返ってきた回答がこの作品である。
一本の欅材からさまざまなモチーフが、下段正面と左右側面の五面に展開されている。主役は子どもたちだ。鎖につないで犬を引いている。みんなで飛び跳ねている。鶴と遊んでいる。籠の中の鶏を観察している。などなど。
ひとつひとつのシーンに技術の粋が込められているが、とりわけ惹きつけられるのは「伏せ籠の鶏」だ。鶏を彫ったあとで籠をかぶせたとしか思えないのだが、そうではなく、籠を彫り、その籠目の間から小さい鑿を入れ鶏を彫り上げるのだという。犬をつなぐ鎖も精巧である。屋台の揺れに合わせて鎖もかすかに揺れるという。
細部の技巧には驚嘆するばかりだが、
「さらに素晴らしいのは、いくつも見せ場をつくり全体として繋がってストーリー性を持っているところです」と東さん。
加えて唐子たちの生き生きとしていることといったら。与鹿は近所の子どもたちを連れて城山に出かけ、いっしょに遊んで観察し、デッサンを重ねたという。
北斎に心惹かれ
麒麟台の傑作を仕上げた数年後、与鹿は3年がかりで取り組む恵比須台の大改修にあたり、主任棟梁を委ねられる。
20代ではあったが、新進気鋭の作家というよりすでに若き大家の風格だったにちがいない。飛騨いちばんの屋台を仕上げてほしいとの依頼だ。ある老舗料亭からは、創作に心置きなく没頭するために、酒は飲み放題の無期限の逗留という待遇も受けた。東さんは言う。
「名作の子連れ龍や飛龍は、その料亭近くの川沿いを散歩中に遭遇した、とぐろを巻く大きな蛇がヒントになったとか」
与鹿はかなりの酒好きだったとされる。気が向かないと仕事をせず、大酒を飲み、飲まなければ鑿を持たなかったなど、いわゆる天才伝説はあるが、「そんなことはなかったはずだ」と東さんは否定する。
「たしかに酒好きだったようですが、飲まなければ仕事しない、はあり得ない。あれほどの発想と技巧は酒の力などでは生まれない」
同感です。与鹿は決して無頼の芸術家ではなかったと信じる。社交性に欠け、お世辞の下手な人だったかもしれないけれど。
30歳を目前にした与鹿は、ふっと高山をあとにし京都を経て、伊丹に向かう。理由は不明。彫刻は続けていたが小品が多かったといわれる。5年ほどのちに高山へ帰る。そして大作、鳳凰台の「谷越獅子」を彫る。
10代のころこの作品と出合った東さんは、与鹿という作家の持つ「どこにも類のない視点」に意表を突かれた。いまもその驚きは消えていないという。
与鹿が影響を大きく受けたのは葛飾北斎だろうと東さんは語る。とりわけこの作品にそれを感じる、と。水の苦手な獅子に波が配されている。その波は北斎の傑作中の傑作、冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」のあの大波が強く影響を与えていると東さんは推測する。与鹿にとって曾祖父ほど年齢差のある大先輩の北斎だが、二人のアーティストに共通するのは、斬新な発想と柔らかな洒脱といえるだろう。
谷越獅子を最後の作品として、与鹿はまた高山を去った。そして今度は二度と帰ることはなかった。東さんは言う。
「きっと大波の向こうにあるような、大きな世界に向かったのでしょう」
──高山祭特集の本編は本誌でお読みになれます。谷口与鹿をはじめとする飛騨匠の情熱と技が注ぎ込まれた祭屋台。第1章では絢爛豪華な屋台が生まれた歴史を、第2章では、高山祭を未来へとつなげる人々の眼差しを記録しています。冒頭には、岐阜県出身の直木賞作家・米澤穂信さんのエッセイも掲載! ぜひお手にとってご覧ください。
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