天竺に向かう途上で命を落とした真如親王の夢──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』
斉衡2年(855)5月23日、東大寺の大仏の頭が落ちた。相次いだ地震のためと思われる。大仏復興は真如親王が担当することになった。
真如親王は平城天皇の第3皇子で、出家する前は高丘親王といった。
平城天皇が譲位し、弟の嵯峨天皇が即位すると、11歳で皇太子になった。しかし平城上皇が都を京都から奈良に戻そうとして騒動(「薬子の変」)が起きると、皇太子をやめさせられてしまう。
24歳で出家。東大寺に住み、道詮に師事して三論宗を学んだ。さらに空海の弟子にもなった。
大仏の復興にあたり、真如親王は、天下の人々に「一文の銭、一合の米」を論ぜず、無理なく協力してもらおう、小さな力をたくさん集めて復興するという方針を立てた。これは奈良時代の聖武天皇と同じ考え方で、のちに大仏を復興する重源上人や公慶上人にも受け継がれていく。
6年後の貞観3年(861)に大仏復興はなり、3月14日に開眼会(魂を入れる儀式)がおこなわれた。その日は全国の国分寺・国分尼寺でも法会が開かれ、集まった人々に、なぜこのようなことをおこなうのか、その理由がしっかり説明された。開眼会の前後は生き物を殺すことが禁じられた。これらも真如親王の意向によるものだった。
大仏の復興がなると、真如親王は、全国の山林聖地を巡りたいと朝廷に願い出る。
出家して40余年にもなるのにまだ一事も成し遂げていない、残り少ない人生をそんなふうに過ごしたいというのが理由だった。
そのあと南海道(紀伊・淡路・四国)に赴いた形跡があるが、6月には唐へ向かう。
貞観3年(861)6月19日、真如親王は奈良を出て南へ進み、巨勢寺(御所市に寺跡がある)に入って、そこで20日を過ごす。
同行した伊勢興房の記録によれば、巨勢寺には南都七大寺の僧侶が多く集まってきて、別れを惜しんだ。
難波津から船で九州へ。そこで新たに船を建造し、9月3日、総勢60人で唐へ出発した。真如親王は64歳だった。船旅は順調で、4日後に明州(現在の寧波)に着いた。
そのあと越州、杭州、揚州、泗州、洛陽などを経て都の長安に入ったが、師の道詮におよぶ人はいない、唐では仏教の疑義を解明できないという結論に達した。
そこで、天竺(インド)へ行く許可をもらい、大半の人々を帰国させて、4人で広州から天竺へ向かって船出したが、消息はそこで途絶えた。
やがて、真如親王が羅越国で亡くなったという情報が伝えられた。羅越国とは現在のシンガポールあたり。のちには虎に食べられたと言われるようになるが、まったく信憑性はない。病気で亡くなったのだろう。
澁澤龍彦さんの『高丘親王航海記』は、フィクションだが、それゆえに真如親王の真実に迫る傑作。この本では、病んで死期の近いことを悟った真如親王が、羅越国と天竺を往復する虎にみずから進んで喰われ、虎の腹の中に入って天竺に至ろうとする、驚きの結末となっている。
ところで、建保7年(1219)、鎌倉幕府三代将軍の源実朝は、鶴岡八幡宮で殺された。実朝には27歳の妻がいた。彼女はそれからどうなったのか。53年後、80歳になった彼女(尼になっていた)が書いた置文(遺言)に、真如親王が登場する。
真如親王が命を捨ててまで仏法をひろめようとしたのは利益衆生(生きとし生けるものを幸せにする)のため。真如親王は三論宗の僧。だからこの寺では三論宗を学ぼう。生まれ変わっても利益衆生をめざしていきたい。
亡くなって400年後に、このような女性が現れたことを知れば、天竺に至る夢は実現しなかったが、真如親王の亡き魂もきっと癒されたに違いない。
(2022年4月13日)
文=西山厚
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