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台湾フルーツの甘い誘惑とタパニー事件(台南・玉井、新化)|岩澤侑生子の行き当たりばったり台湾旅(10)

この連載は、一昨年まで現地の大学院に留学されていた俳優の岩澤侑生子ゆきこさんが、帰国前に台湾をぐるりと一周した旅の記録(2022年8月1日~9日)です。今回は、美味しいフルーツを味わいつつ、この土地で起きた苦い歴史を振り返ります。行き当たりばったりの台湾旅をぜひ一緒にお楽しみください。

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台湾は言わずと知れたフルーツ天国。そのなかでも毎年誰もが心待ちにしているのは、マンゴーの季節だろう。太陽のエネルギーを果実いっぱいに濃縮した台湾のマンゴーは格別だ。より新鮮なマンゴーが食べたい!と、台南駅から路線バスに揺られて1時間半強、マンゴーの生産地として有名な台南の郊外、玉井へ向かう。

まさに南国という風景
青果市場に到着

まずは青果市場(台南玉井区青果集貨場)へ。マンゴー、バナナ、ドラゴンフルーツなど、色とりどりの新鮮な果物が並べられ、香気を放っている。どの果物も普段台北のスーパーで見かけるものよりも大きく、値段も1かご100元(約460円)からと大変お得。場内は車やバイクで乗り付けた地元の人で賑わっている。

普段あまり目にすることはない珍しい果物がたくさん売られていて、眺めるだけでも楽しい。ドリアンのようなひょうたん型の果物は、1994年に台湾に初めて苗木が導入された、マレーシアやインドが原産の「榴槤蜜(日本語:コパラミツ )」。当初は苗木の定着が困難だったものの、長い年月をかけて研究された結果、現在では安定して収穫が行われている。表面はドリアンと同じような独特の臭いが漂うが、果肉はねっとり甘く、やみつきになってしまうくらい濃厚な味なんだとか。

ナンバンカラスウリ

農家のおばさんから木鱉果(ナンバンカラスウリ)というオレンジ色でトゲトゲの果物を勧められた。「木のすっぽん(鱉)」という名に相応しく、非常に栄養価の高い果物で、ビタミンCはオレンジの30倍、βカロテンは人参の約20倍、リコピンはトマトの約70倍も含まれているとか。果実は鮮血のように真っ赤で、料理にも使われることが多い。別名「天国からきた果物」とも呼ばれている。南国の陽気な雰囲気にぴったりの果物だ。

アップルバナナ

褐色の蘋果香蕉(アップルバナナ)は、もちもちの実から淡いりんごの香りがするらしい。写真では分かりにくいが、一般的なバナナよりやや大きくて、一本食べるだけでお腹がいっぱいになりそう。

愛文マンゴー
市場のなかは意外に涼しい

名物のマンゴーもさまざまな品種がある。台湾のマンゴーは市場でよく見かける品種だけでも16種類もあるらしい。玉井名物の愛文芒果(アップルマンゴー)は、もともと台湾の在来種ではなく、戦後にアメリカから苗木が持ち込まれた外来種だ。台湾アップルマンゴーの父と呼ばれる玉井の農家、鄭罕池ジェン・ハンチーさんが栽培方法を確立したおかげで、玉井はマンゴーの里と呼ばれるようになった。大勢の人で賑わう市場の様子を眺めながら、現在台湾で食べることができるたくさんの果物は、研究者や農家の絶え間ない努力によって恒常的に味わえるようになったことが分かった。

アスファルトがじりじりと焼かれる市場の外に出る。市場で買うことは難しくても、ここから歩いてすぐの玉井老街で美味しいマンゴーかき氷を食べることができる。どのお店に入ろうか迷いGoogle Mapで検索するも、どこも高評価で決められない。さすがマンゴーの里。

人の出入りが激しい「有間氷舗」に入る。夏休みの時期だったので家族連れが多い。大型の扇風機から人々の汗のにおいが漂ってくる。看板メニューの「芒果無雙」を注文する。

芒果無雙(小)

小サイズでもボリューム満点。マンゴーの果汁を凍らせてふわっと削った雪のような氷に、愛文芒果と情人果の2種類のマンゴーがトッピングされている。情人果の「情人」は恋人の意味で、酸味のある青マンゴーを砂糖漬けにしたもの。恋愛の甘酸っぱさにちなんでこの名前がついたとか。

マンゴー尽くしのかき氷で身体がすっかり冷えたあと、もう一つの目的地、タパニー事件紀念園区(噍吧哖事件紀念園區)へ向かう。かき氷屋さんの賑やかさから一転、辺りに静けさが漂う。玉井老街から歩いてすぐなのに、ここを訪れる観光客はあまり多くないようだ。

1915年に起ったタパニー(噍吧哖)事件は、日本が台湾を統治したあとに起った、漢人による武装抗日運動だ。人々はこの玉井一帯で警察や軍隊を相手に激しいゲリラ戦を繰り広げ、おびただしい数の犠牲者を出した。事件後、逮捕や起訴をされた人数は2000人近くにおよび、100名以上の人々が処刑された。

元製糖工場だった園区内には蒸気機関車が展示されている

タパニー事件以降、台湾の人々による抵抗運動は台湾議会設置嘆願運動などの社会運動や、台湾文化協会の設立など、文化や社会改革によって人々を啓蒙していく方向へと変化していった。この地に残された痛ましい歴史を想うと、さきほど味わったマンゴーの蜜のような甘さが、また違った味わいに感じられる。

台南市内に戻るバスに乗ると、経由する駅にいくつか観光スポットがあったので、ちょっと寄り道することにした。スコールのなかを走るバスに揺られて、新化という街に到着。

1934年に建設された旧新化街役場。
現在はレストランが入っている。

日本統治時代に建てられた趣のある美しい建物が並ぶ。ここ新化は、都市部と山岳地帯の中継地点として多くの商人が行き交った街だ。この街の繁栄の営みを感じさせるバロック様式の建物は、台湾歴史建築百景の第二位にランクインしている。建物の芸術性もさることながら、街そのものが記憶する歴史の荘厳さに圧倒される。

日本統治時代に新化で生まれた作家、楊逵の祈念館に辿り着く。

楊逵文学紀念館

楊逵(本名:楊貴)は日本統治時代の1906年に新化で生まれた。楊逵が9歳のとき、前述のタパニー事件が発生する。固く閉ざした家の扉の隙間から、討伐のために進軍する日本軍の姿が彼の脳裏に焼きついた。のちに彼は、日本の統治に抵抗する「烈士」だと思っていたタパニー事件の中心人物たちが「匪徒ひと」と見なされていることを知る。この出来事は、楊逵の生涯の思想に深い印象を残した。

楊逵は日本語教育を受けて育ち、1924年に内地留学を果たした。昼は働きながら夜は日本大学で学び、その後、台湾に戻ってから、小説「新聞配達夫」を発表。作品は雑誌『⽂芸評論』の第二席を獲得し、内地の文壇界に進出した初めての台湾人作家となった。彼は創作のほか社会運動に傾倒し、厳しい弾圧を受けて何度も投獄された経験がある。

館内には記念写真や日本人作家や台湾研究者との記念写真や色紙が多数飾られている。戦前戦後を生きた楊逵の作品や生涯を通して、台湾の歴史の変遷やそこに生きた人々の苦節が伺える。

写真右は総督府警察官の入田春彦。
当時楊逵は米代が払えず借金があったが、
「新聞配達夫」を読んで楊逵に興味を持っていた入田は、
楊逵の借金の肩代わりをし、
家族ぐるみの付き合いもあった。
1982年に楊逵が東京を訪問したときの記念色紙。
学者や作家の名前が並ぶ。
戦後も続く日本との交友が覗える。

台湾の豊かさは、恵まれた自然環境のほかに異なる時代を経て生きた人々の営みと苦難の歴史で成り立っている。台湾フルーツの甘美な果実と歴史の苦みを味わいながら、台南から台東を目指す。

日本統治時代の官舎「大正十一」

<参考文献>
・周婉窈 著 石川豪ほか 訳(2013)『増補版 図説 台湾の歴史』
タパニー事件紀念園区公式サイト
みんなの修学旅行
【臺文天文臺】謝宜安:作家聽說的傳說——1915年噍吧哖大屠殺

>>>次回へ続く

文・写真=岩澤侑生子

岩澤侑生子(いわさわ・ゆきこ)
1986年生まれ。京都出身の俳優。京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)映像舞台芸術学科卒。新国立劇場演劇研修所7期修了生。アジアの歴史と中国語を学ぶため、2018年から台湾に在住。これまでCM、MV等の映像作品の出演や台湾観光局のオンライン講座の司会を務めた。2022年8月に淡江大学外国語文学院日本語文学科修士課程を修了し、日本へ帰国。
HP:https://www.iwasawayukiko.com/
Twitter:https://twitter.com/iwabon

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