杜若われに発句のおもひあり|芭蕉の風景
杜若われに発句のおもひあり 芭蕉
業平の和歌に向き合う
貞享二(1685)年旧暦四月四日、芭蕉は尾張の鳴海宿に門弟知足の家を訪ねて一泊した。知足の仕事は酒造業、鳴海俳壇の中心人物である。芭蕉を案内したのは、熱田の桐葉ら。鳴海の俳諧仲間も集まり、全員九名で連句を巻いている。掲出句はその先頭一句目、発句である。
日付までわかるのは、知足が日記に記録していたからだ。前年秋に江戸を出て、伊勢、伊賀、大和、京都、近江を巡った、紀行文『野ざらし紀行』の旅も、終わりが近づいていた。
知足の子である蝶羽が、父の遺志を受けて刊行した俳諧撰集『千鳥掛』(正徳六年・1716年刊)に、その連句は収録されている。句意は「かきつばたの花を見ていると、わたしの中に俳句を詠もうという思いがきざしてくる」。『野ざらし紀行』には未収録。
杜若といえば、三河八橋で、東下りの在原業平が杜若を見て詠んだとされる次の和歌が有名である。
唐衣着つつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ 『古今和歌集』および『伊勢物語』
歌意は「着てなじんでいる、唐風の袖が大きく裾が長い衣服、唐衣のように、長年なじんだ妻が都にいるので、都を遠く離れてはるばると来てしまった旅のことをしみじみ思うことだよ」。和歌は五・七・五・七・七音でできているが、それぞれの句頭が「か」「き」「つ」「は」「た」になっている。これは「折句」という技法。ことば遊びを楽しみつつ、京に残してきた妻への思いを詠んだ名歌である。
掲出句を詠む際に芭蕉はこの和歌を意識していた。業平の和歌に対して、芭蕉は発句を作ろうという思いが湧き上がったと詠んでいるのだ。業平が旅を思ったように、芭蕉もみずからの遥かな旅を思っていよう。
知足が住んでいた、東海道の鳴海宿の東隣の宿場は、池鯉鮒(現在の愛知県知立市)。多くの和歌が詠まれた土地である歌枕の「八橋」は、実はこの宿場の近くと考えられていた。句に杜若を詠み込むことは、八橋に近い地にある知足の家を褒める意味も含んでいたのだ。
八橋に業平の旧跡を巡る
今日は、八橋を訪ねてみたい。二月も終わりのよく晴れてあたたかな日、名鉄三河線の三河八橋駅に降り立った。駅前に名所の地図と案内とが掲げられている。業平関係の旧跡もいくつかあるようだ。ゆっくりと巡ってみたい。
三河八橋駅から南下し、鎌倉街道に出て、北西へと向かう。街道を一キロほど歩くと、「落田中の一松」がある。現在は住宅地の中の小公園「かきつ姫公園」である。掲示によれば、ここが、業平が「唐衣」の和歌を詠んだ地であるという。
「落田中」という地名は、近くを流れる逢妻男川の氾濫で、田が崩れ落ちたところから付けられたのではないかと、推定されている。平安時代には湿地で、杜若が生えていたらしい。現在は乾いていて、松が生えている。
鎌倉街道を南東へと戻る。逢妻男川を渡って、名鉄三河線の踏切のすぐ北側に業平塚がある。業平の墓である。掲示によれば、業平の没後に遺骨を分けてもらって、塚を築いたと伝えられている。地元では供養塔の石のくぼみに溜まった水をいぼにつけると治るといわれており、そのため「いぼ神さま」として信仰されてもいる。業平が地元の方にいまだにだいじにされていることが、うれしい。
さらに戻って北上、無量寿寺に詣でる。この本堂には在原業平とその両親の像が安置されているという。境内には芭蕉連句碑が建てられていた。俳句だけの句碑は多いが、連句碑は珍しい。芭蕉が鳴海で訪れた知足の子孫、下郷学海が安永六(1777)年に建てた歴史あるもの。
刻まれているのは、掲出句と、それに付けた知足の脇句である。「麦穂なみよる潤ひの里」。句意は「風に吹かれて、麦の穂の波が打ち寄せている、恩恵を受けた里であることよ」。発句の杜若の花の紫色に対して、知足は麦の黄金色を出した。芭蕉が来訪してくれたおかげで、俳諧を学ぶことのできる幸せを、風に吹かれてなびく麦の穂で表現しているのである。
なお、『千鳥掛』にこの脇句は「麦穂なみよるうるほひの末」というかたちで掲載されている。「うるほひの末」とは、恩恵を受けた結果という意味、元々はこちらの形であったはずだ。
連句碑の解説の掲示には、「芭蕉は知足の案内でこの八橋に遊び、古に思いを巡らしたのであろうか」と書かれている。歌枕に関心がある芭蕉である。その可能性は高い。今日のぼくのコースを歩いている芭蕉を想像する。寺の周りには池が巡らされていて、杜若が植えられているという。まだ二月末、杜若は水中で芽を出したところである。
業平の墓に山鳩春日差 實
業平さまはいぼ取りの神春の風
※この記事は2018年に取材したものです
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