作家・井上靖が一番好きだった月夜の散歩道と仁和寺の二王門 |偉人たちの見た京都
『氷壁』『天平の甍』『敦煌』『蒼き狼』等の長編小説や『猟銃』『闘牛』(芥川賞受賞作)等の短編小説で知られ、ノーベル文学賞候補にもなった、昭和を代表する作家・井上靖(1907~1991)は、学生時代とその後の数年間、京都に住んでいました。
靖は北海道上川郡旭川町(現・旭川市)に生まれましたが、軍医だった父が従軍して家を離れたため、母の郷里である静岡県田方郡狩野村湯ヶ島(現・伊豆市湯ヶ島)で育ちます。金沢の第四高等学校を経て、九州帝国大学に進学。しかし、聴講の興味を失ってほどなく中退。1932年、あらためて京都帝国大学文学部哲学科に入学します。
ところが、ここでも放埒な生活は続き、ほとんど学校にも出ず、懸賞小説に応募したり、映画や舞台の脚本を書いたり、哲学科の仲間と同人誌に詩を掲載したりして、気ままな4年間を過ごします。結局、1936年に大学を卒業した時には数え年で30歳になっていました。靖にとって京都は、現実の生活からの逃避と将来に対する不安に揺れた青春時代の舞台だったのです。
靖の小説や随筆には、若き日の記憶の残る京都の町がたびたび登場します。1956年に発表した随筆「仁和寺の楼門」に、こんな文章がありました。
京都には散歩するにいい場所が沢山ある。街なかを少し外れると、どこを歩いても気持がいい。
私は現在大抵年に二、三回は京都の土を踏むが、いつも特にお寺や庭や美術品を見て廻りたいという気持は起きない。しかし、必ずどこかをぶらぶら歩いてみたいという気持にはなる。春でも夏でも、秋でも冬でも、その季節季節に応じて、京都には必ず散歩して気持のいい場所があるようである。
私は学生時代と、それからそのあとの何年かを断続的に京都で過しているので、そんなことからよく人から京都の散歩道のことを訊ねられる。その度に私は高台寺付近の、甘酒屋のある道や、南禅寺付近の築地の続いている静かな通りや、そうした誰が歩いても必ず京都らしく決して失望しないところを教えることにしている。
しかし、私自身本当に好きなところは別にある。私自身は好きではあるが、しかし、果して他人がそこを私同様にいいと受取ってくれるかどうか判らないので、他人には勧めたことはない。それは龍安寺から仁和寺へ行く道と、もう一つは法然院前の疏水に沿った道である。
靖が京都で学生生活を送っていたのは、1932年から1936年にかけて。世の中は五・一五事件(1932年)から二・二六事件(1936年)に至る、戦争の影が人々の生活の中に次第に色濃くなってくる頃でした。ですが、京都にはまだ静かで平穏な空気が流れていました。靖は、そうした日々に、時代の傍観者として、京都の町を黙々と歩いていたのです。
靖が一番に好んだ散歩道が、龍安寺から仁和寺に続く道でした。現在は、「きぬかけの路」として知られる京都市道183号線が龍安寺前から仁和寺前まで続いていますが、これは1963年に開通した道路で、靖の学生時代にはありませんでした。
ちなみに、「きぬかけの路」は1991年に愛称が付けられるまでは観光道路と呼ばれていました。金閣寺から龍安寺を経て仁和寺に至る名所旧跡を結ぶ道としての呼称です。ただ、京都らしくない無粋な名前ということで、地元が全国から愛称を公募。宇多天皇が真夏に雪見をするため、近くの衣笠山(別名きぬかけ山)に絹を掛けたという伝説に想を得て「きぬかけの路」と命名されました。道路沿いに由来を記した石碑があります。
私は学生時代に等持院に下宿していたので、龍安寺附近は毎日のように散歩したが、私が龍安寺から仁和寺へ行く道を本当に美しいと思ったのは月の夜の散歩であった。学生時代ばかりでなく、大阪の毎日新聞に勤めるようになってからも、一回、学生時代受けた印象を験してみるようなつもりで、年長の同僚と二人で宴会が果ててから、夜遅くここを訪ねたことがある。その時も本当に月光に照らされた道を美しいと思った。
昔の地図を見ると、当時、龍安寺から仁和寺に行くには、龍安寺の参道を南に下って南門を抜け、突き当たりを東西に走る龍安寺御陵道を西へ向かうというのがコースだったと思われます。
龍安寺から仁和寺までの間は、道に沿ったり、少し引っ込んだりして、ちらほらと小住宅があるが、しかし、人通りは全くないので一人で歩くのは少し淋しい。特に眺めがいいわけでもなく、ただ京都の郊外らしいのんびりしたところであるが、月光に照らされると感じはきびしくなり、いかにも龍安寺と仁和寺を繋いでいる道といった感じになってくる。
靖が歩いたと思われる道は、今でこそ住宅が建ち並んでいますが、昼の時間帯でも車や人の通りは少なく、夜になるとさらにひっそりとします。それが約90年も昔、靖が散歩していた時代は、今では想像のつかないくらい静かで、人気のない道だったのではないでしょうか。
この道の風景を、靖は1953年に発表した短編「石の面」で描写しています。小説では、主人公の男が長年付き合っていた女に別れを告げる前に、自分の好きだった道を女に見せようと考えて歩いていきます。
道の両側には、普通の小住宅がちらほらあって、家と家の間は変哲もない野菜畠が埋めているのだが、いかにも郊外の感じであった。畑には青いものの間に鶏頭とポンポンダリアが、所々に明るい赤さを撒き散らしていた。道端に山羊が繋がれていた。秋の陽を浴びている怠惰な生きものも、この閑寂な風景の中ではむしろ活き活きとして見えた。(「石の面」)
野菜畠や道端の山羊など、戦前にはこの辺りはまさに京都の郊外というべき場所だったのでしょう。時代の変化を感じさせられます。
道は仁和寺に突き当り、そこから長い塀に沿って曲る。ここはよく昔時代劇映画に登場した道である。ここを抜けて仁和寺の正門の方へ廻る。
靖の散歩道は、現在は市バス「塔ノ下町」バス停付近の交差点で「きぬかけの路」と交差しますが、そのまま直進すれば仁和寺の塀に行き着きます。塀に沿って左に曲がり、さらに右折すると、仁和寺の正門(二王門)に向かうことになります。
巨大な楼門はいつ行っても固く閉ざされてあった。私はいつも石段に腰を降ろしたり、石段を上って閉ざされた門の前へ 立ったりして、そこで躰が冷たくなるまで月光に曝されたものである。
仁和寺は真言宗御室派の総本山。平安時代の仁和4(888)年に宇多天皇によって創建された寺院です。皇室とゆかりが深く、退位後に出家した宇多法皇が仁和寺内に僧坊を造営。法皇が御座する室(僧坊)から「御室」と呼ばれ、後に周辺の地名ともなりました。遅咲きで樹高の低いことで知られる「御室桜」は有名で、京都の名所のひとつになっています。
仁和寺の正門は、門の左右に一対ずつ、計二体の金剛力士像を安置していることから「二王門」と呼ばれています。高さは約18.7メートル。応仁の乱で境内伽藍が焼失したため、17世紀前半(江戸時代)に徳川幕府の助力で再建。現在は重要文化財に指定され、知恩院の三門、南禅寺の三門と並んで、京都三大門に数えられています。
私は長いことこの月明の夜の仁和寺の楼門のことを詩に書こうと思っていた。実際に何回か書きかけたが、結局は書けなかった。詩に書けなかったからというわけではないが、私は「楼門」という小説の中にここのことを書いた。月の夜、ここに観月に来て、大きな頑丈な楼門に家守のように張りついて、それを両手で押す人物を主人公にした三〇枚の短篇である。その主人公の無益の作業を写すことに依って、その人物の孤独な心を描こうと試みたものであった。
靖は、短編「楼門」の中で、月下の二王門を次のように印象的に描いています。
白い月光がさんさんと古い大きい山門に降って、石段はために白く照り輝き、人一人居ないこれも雪でも置いてあるかのように白く見える築地に沿った道路には、老松の影がくっきりとインキでも流したように、黒く捺されてあった。私には生まれて初めてみる悽愴な感じの月夜の美しさであった。(「楼門」)
深夜、冴え冴えとした月の光に照らされた仁和寺の二王門。これだけで詩になり、一幅の絵です。京大の哲学科では美学を専攻し、毎日新聞学芸部では主に美術関係の取材を行なっていた靖の感性は、学生時代から培われていたものなのでしょう。夜になって人の姿も絶えた門前に佇めば、月光の下、鎖された大門の石段に腰を降ろす若き日の井上靖の幻が見えてくる気がします。
出典:『井上靖全集』(第二十三巻)「仁和寺の楼門」
『井上靖全集』(第三巻)「楼門」「石の面」
文=藤岡比左志
写真提供=きぬかけの路推進協議会
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