日常の舞台を旅の中に 小川 哲(作家)
デビュー二作目の『ゲームの王国』という小説を出版する直前、僕はハワイに滞在していた。一年前から決まっていた友人の結婚式に出席するためだった。
当時は今ほど円安が進んでいなかったけれど、僕はまだ作家としてデビューしたばかりで金欠だった。貧乏人にとってハワイへの往復航空機代は高くつく。あまりにも高くつくので、「一泊や二泊で帰ってくるのはもったいない」という発想になった僕は、安いホテルに長期滞在しようと考えた。そのせいで、僕は原稿の最終的な修正をしている大切な時期のほとんどをハワイで過ごすことになってしまった。担当編集は「何か問題が発生したときに困るので日本にいてください」と言ってきたけれど、一年も前から計画していて、航空機もホテルも予約しているのだからこちらも譲れない。
そうやってなんとかハワイへやってきたのはいいものの、お金はほとんどないし、その上やらなければならない仕事は山積みだった。海もショッピングもアートも楽しむことなく、ホテルに併設された小さなプールのデッキチェアで原稿を直し続ける日々だった。当然、有名店で食事をすることなんてできない。ホテルの近くにあったサブウェイで買ったサンドイッチを毎日のように頬張りながら、ラップトップに向きあって、どうやったら今よりももっと面白い原稿になるのか知恵を絞った。
結局意味のない旅行だったのかというと、実はそうでもない。そのときのハワイ旅行のことを、僕はよく覚えている。よく覚えているのは、よく思い出すからだ。『ゲームの王国』の話になると、ハワイのプールを楽しむ家族連れを横目に、大きなペットボトルに入った水を飲みながら原稿を直した記憶が蘇ってくる。非日常的な場所で日常的な業務をしていたことが印象深く残っているのだろう。『ゲームの王国』の舞台はカンボジアなのだけれど、僕の中ではハワイと結びついている。
それ以来、長編小説の重要な作業を旅先で行うことが習慣化してしまった。『地図と拳』という作品のときは那覇にいた。十日間ほど滞在したけれど、ほとんどの時間をホテルとスタバで過ごした。『君のクイズ』のときは一週間ほど石垣島へ行った。どちらの旅行でも、一度も海へ行っていない。スーツケースいっぱいに資料を詰めて、必死に文章を書いていた。
僕たちは日常的な記憶から順に失っていく。旅へ出る目的の一つは、自分という歴史の教科書に記述される非日常的な体験をするためだ。世界遺産やテーマパークを楽しむのも素晴らしい体験だけど、非日常の中に日常をねじこむことで、普通なら忘却してしまいそうな日々を長く記憶に留めておくこともできる。そして何より、それほど気のすすまないことでも、普段より少しだけ楽しんでやり遂げることができるのだ。
今執筆している長編の最後の作業をどこで行おう─そんなことを考えながら仕事をしている。
文=小川 哲
イラストレーション=駿高泰子
出典:ひととき2024年8月号
筆者著作『地図と拳』
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