『源氏物語』に描かれた暁の野宮神社と国文学者・池田亀鑑|偉人たちの見た京都
世界最古の小説ともいわれる『源氏物語』。今から1000年以上前、平安時代中期に紫式部によって執筆された日本が世界に誇る文学作品です。京都には『源氏物語』に描かれたゆかりの地が数多く存在します。京都市が「源氏物語ゆかりの地」と認定し、説明板を設置したところだけで40カ所もあります。
その『源氏物語』の研究に生涯を捧げた国文学者が池田亀鑑です。一般的な知名度は高くありませんが、平安朝文学の最高権威であり、近代の『源氏物語』研究の基礎を築いた人物として知られています。『源氏物語』研究における池田の業績は高く、今日まで後進の研究者に多大な影響を与えています。
池田は1896(明治29)年に鳥取県日野郡福成村(現・日南町)の没落した旧家に生まれました。鳥取師範、東京高等師範を経て東京帝国大学国文学科を苦学して卒業。卒業後は、大学教員、編集者、小説家などを務めながら古典文学の研究を続け、やがて東大教授となります。『源氏物語』は池田が特に愛した文学作品でした。
1956年12月に池田は60歳で亡くなりますが、没後の1959年に、彼が書き残したさまざまな原稿を友人や門下生らが編集。『随筆集 花を折る』を刊行します。その中に、『源氏物語』の舞台となった野宮神社を訪れた日を回想する美しい文章がありました。
源氏物語には、京都の秋をえがいた文章がたくさんありますが、それらの中でも賢木の巻の野の宮のくだりほど、心にしみ入るような美しい文章は少ないでしょう。わたくしも、一度その野の宮の暁をたずねて見ようと考えていましたが、先年機会があって、長い間の宿願を果たすことが出来ました。
しかも、秋の半ばで、ちょうど源氏の君が野の宮にいる六条の御息所をたずねて行ったのと、同じ季節の同じ時刻にそれが出来たのは、ありがたいことでした。
野宮神社の所在地は京都市右京区嵯峨野々宮町です。渡月橋の北側、嵯峨野・嵐山観光の中心にあり、「縁結び」や「縁切り」のご利益のある神社として、女性に根強い人気があります。竹藪に囲まれた静かなたたずまいに、平安時代を思わせる清浄な空気が満ちています。
野宮は本来、天皇に代わって伊勢神宮にお仕えする女官・斎王が伊勢へ行く前に身を清めた場所です。この地が、なぜ『源氏物語』に登場するのでしょうか。「賢木の巻」では、光源氏の愛人だった六条御息所という女性が、源氏との別れを決意。斎王となって伊勢に下る娘と共に野宮に仮住まいしていたところを、源氏が訪れるという印象的な場面があるのです。
実は、六条御息所は前巻の「葵の巻」で、嫉妬のあまりに生霊となって、光源氏の正妻の葵の上を恨み殺してしまいました。生霊の噂の広まりと葵の上の死に耐えかねた御息所は源氏への恋を諦めて、伊勢へ向かうために野宮へ行ったのです。そんな御息所を哀れに思った源氏は、秋深まる野宮を早朝に訪れて、別れを惜しむことになります。
源氏物語には、「秋の花みなおとろへつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて……」と書き出してあります。
わたくしは、番頭さんに案内されて、夜深く宿を出ました。渡月橋をわたり、釈迦堂の方へ行く路をまわる時に、小倉山の上あたりに残月がかかっていました。
やがて「野宮道」と書いた小さな石の道標の前に立ったころ、どこからともなく朝霧が流れてくるのです。まるで湯気のようなほのかな霧の色でしたが、見ている中に月影をぼかしわたくしたちを包んでしまいました。
その乳色の朝霧の中に、うっそうとした竹藪の垣がつづいています。番頭さんは、もってきた提灯に火をつけて、先にたちました。その灯がばうと霧にうるみます。地面には落葉が一ぱい重なり合って、冷え冷えとした感触です。
着物が霧にしめってきたようで、番頭さんもえりをかき合わせて、「寒うなりましたなあ」といいます。落葉のにおい、土のかおり、濃い朝霧、まるで「古代」が淀んでいるような、竹の下道でした。
さすがは小説家としても活躍していた池田の文章です。実に美しく、秋も深まった嵯峨野の暁の光景が、空気感や匂いと共に伝わってきます。
野の宮というのは、むかし、伊勢神宮に斎の宮としてお仕えになる未婚の内親王が、三ヶ年おこもりになって、清らかな生活をなされ、一切の穢れや、不正を洗い落とされて、神にお仕えなさることのできる自信をえられるための神聖な道場でした。そこには、きびしい戒律があり、自己批判もあったわけです。
その野の宮のことは、いろいろの文学にあらわれていますが、斎宮女御のお歌の集と、源氏物語の賢木の巻とは、それらの中で、一番重要なものです。今日では、その習慣は廃されたのですが、野の宮のあとには、同じ名の神社がたてられているのです。
現在の野宮神社はかつての野宮が置かれた場所にあります。神社によると、野宮の場所は天皇の即位ごとに定められるもので、「当社の場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初」であり、「斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶」し、野宮としては使われなくなったようです。
竹藪に沿うた小路を、おぼろな提灯の光に照らされて二三町行くと、番頭さんは、「ここでございます」といって、提灯をさしあげました。なるほど、正面に昔を思わせるような黒木の鳥居がたっています。低い石段ですが、苔がむして、いかにも神さびた境内のけはいです。「黒木の鳥居どもは、さすがに神々しう見えわたされて……」と源氏にかかれている文句がまず思い出されます。
「黒木の鳥居」とは、樹皮が付いたままの原木を用いた鳥居のこと。『源氏物語』に描かれた「黒木の鳥居」は、今でも野宮神社の参道に、平安時代を思わせる同じ形で立っています。樹皮の付いたケヤキの丸太を組んだこういう鳥居は、日本最古の鳥居形式といわれています。
源氏の中には、神主たちが、あちらこちらにいて、せき払いなどしながら、めいめい話などしている。火焼屋*の光がかすかにもれて、あたりに人気はすくない……というようなことが書いてありますが、今日の野の宮は、人の声もせず、光も見えず、ただ深い霧と、暁の闇の中に、寂然と静まっています。
夜があけるまでには、まだかなりの時間がありましょう。わたくしと番頭さんとは、提灯の火を消して、社殿の前にうずくまりました。わたくしは、うずくまったまま耳をすましました。耳を澄ますということは、心をすますことでした。わたくしは、野の宮の深い静寂の中に、「平安朝」の声をきこうとしていたようです。
琴の音に峯の松風通ふらしいづれの緒よりしらべそめけむ
これは誰にも知られているように、斎宮女御が、この野の宮で「松風夜の琴に入る」という題でおよみになったお歌です。今から一千年も昔のことです。今わたくしは、同じ野の宮にきている、そして古人の心をたずねている。着物は霧にぬれて、冷たさが肌にとおります。
境内には、松や椎の木や、そのほか雑木などがうっそうとしているらしいのですが、暁の霧と暗にかくれてよく見えません。底の知れぬ静けさです。こんな時刻をえらんで、どうしてお参りしたのか、番頭さんは不思議に思っているらしい。彫刻のように、じっとうずくまっています。
突然、キキキとするどい声がしました。どこかの梢でないた夜鳥の声でした。わたくしたちははっとして目をあけました。が、その一声だけで、二度と鳥は啼きませんでした。暁の野の宮は、いよいよ幽かな静寂の世界に沈んでゆくのです。
これはまさに幽玄の世界です。池田は、野宮のこの深い静寂の中に「平安朝」の声を聞こうとしたと記しています。夜明け前、提灯の灯を消せば、そこには深い闇と濃い霧があるばかり。時間の流れもゆったりと、あるいは止まってしまったかのようにも感じられたでしょう。昼の光景とはまったく違う世界が、そこにはあったのです。池田の耳に平安朝の声は届いていたのでしょうか。
あの日から、もうよほどの歳月が流れました。野の宮はやはりあの時と同じように静かでしょうか。源氏をよみかえすたびに、あの野の宮の静寂が思い出されます。
池田がこの原稿を執筆したのは1951(昭和26)年でした。しかし、ここにあるように、暁の野宮神社を訪れたのは、そのかなり前のことと思われます。戦前の昭和10年代か、もしかしたらもっと前だったかもしれません。今のように観光地化されず、また観光客も少なかった時代。夜明け前の秋深まる嵯峨野の竹林の道を歩けば、お忍びで野宮に六条御息所を訪ねる光源氏の幻が浮かんで見えても不思議ではないでしょう。
出典:池田亀鑑『随筆集 花を折る』「嵯峨野の秋」
文=藤岡比左志
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