嶋々や千々にくだきて夏の海|芭蕉の風景
嶋々や千々にくだきて夏の海
瑞巌寺の金壁荘厳
芭蕉にとって松島は特別の場所であった。『おくのほそ道』の旅、出立前に書かれた書簡にも、この地が目的地の一つであったことが示されている。『おくのほそ道』発端にも「松島の月先心にかかりて」と記していた。松島を見ることが旅の目的の一つであった。
まず、この地は歌枕である。「松島や雄島が磯による浪の月の氷に千鳥なくなり」(『俊成卿女集』)など月の歌も残されている。歌意は「松島の雄島の磯に寄せる浪が月光が凍ったように見える、そこに千鳥が鳴いているのです」。
現在、日本三景の一つと言われているが、芭蕉と同時代の仙台の俳人大淀三千風は、『日本行脚文集』(元禄二年・1689年刊)巻頭の「本朝十二景」に、田子の浦に次いで第二位として掲げている。当時から日本を代表する好風景として認められていたのだ。さらに芭蕉の愛読した仏教説話集『撰集抄』によれば、西行は僧・見仏上人を慕い、しばらくここに滞在していた。松島は芭蕉の追慕した西行の遺跡でもあった。
元禄二(1689)年旧暦五月九日朝、芭蕉は曾良とともに塩竈明神に参詣後、船で松島を訪れた。滞在は一日のみであったが、漢詩文をよく踏まえた高揚した文章を残している。掲出句は『蕉翁全伝附録』(成立未詳)所載。『おくのほそ道』には掲載されなかった。句意は「島々をたくさん砕いて夏の海がある」。
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仙台駅で東北新幹線を降りる。観光地の松島は東北本線の松島駅ではなく、仙石線の松島海岸駅であることが繰り返しアナウンスされている。松島海岸駅で降りて、瑞巌寺へ向かう。道の脇には土産物屋、食堂が立ち並び、人通りが多い。絵や像の芭蕉をそこここで見る。それだけ愛されているということの証だろう。
瑞巌寺を拝す。芭蕉が「金壁荘厳光をかかやかし、仏土成就の大伽藍とはなれりける」と書いている大寺である。意味は「金色の壁や内障の装飾がまばゆい光を輝かせ、そのまま極楽浄土を現前させた大伽藍となったのです」。本堂は現在改修中であるが、すでに修理が済んだ部分は江戸初期の障壁画が華やかで、まさに「金壁荘厳」という芭蕉のことばどおりである。前庭に植えられている梅の古木は伊達政宗公が朝鮮出兵の際に持ち帰ったものであると立て札があった。紅白の梅は遅い盛りを迎えていた。
なぜ松島の句がないのか
五大堂を拝し、松島海岸の南に浮かぶ島、雄島に向かう。海岸から渡月橋と名付けられている橋を渡る。
この小さな島にはいくつか遺跡が残されている。芭蕉も訪れた瑞巌寺の中興、雲居禅師の別室の跡、鎌倉期の禅僧一山一寧が島の歴史を綴った重要文化財「頼賢の碑」などを訪ねる。碑は鞘堂が視野を遮り、字をなかなかたどれない。島全体が柔らかな石で、仏像や五輪塔などが多く浮き彫りにされている。しかし、芭蕉が「世をいとふ人」(世のわずらいを避けている人)と書いている修行者の姿はまったく見えなかった。しだいに強い風が出てきて、海の上に吹き落とされそうである。
『おくのほそ道』の松島の項に芭蕉の句がないことについて触れなければならない。芭蕉は土芳編『三冊子』(元禄十五年・1702年成立)に「絶景に向かふ時は奪はれてかなはず」とことばを残している。意味は「みごとな景色に対する時は、心が奪われて句をなすことが思うようにならないのです」。
『笈の小文』の花の吉野においても「われ言はんことばもなくて、いたづらに口を閉ぢたる、いと口惜し」と書いた。意味は「私の口に出すような言葉もなくて、無駄に口を閉じました、たいそう残念なことでした」。句がないのは、これらと重なる態度である。名所中の名所に来てその風景だけで十分に満足している。すでに数々の名歌などが尽くされている。この名勝を自分の句で汚したくないということだろう。
『おくのほそ道』は小品ながら場所ごとの文章の変化を重んじている。ここは漢詩文を多く引用した文章そのもので読ませるということもあろう。さらには同行者曾良に花を持たせるという理由も考えられる。
「松島や鶴に身を借れほととぎす 曾良」。句意は「松島の景色の格にはほととぎすの声は合うが姿は合わない、鶴の姿を借りよ」だ。いささか理屈っぽい。曾良の句は俳諧撰集『猿蓑』にも収録。『猿蓑』の「松島や」の句の前書に示すように、鴨長明著『無名抄』の「千鳥も着けり鶴の毛衣」を踏まえている。意味は、「千鳥も着たことだよ、鶴の毛でつくった衣を」。曾良はこの「千鳥」を「ほととぎす」に変えて詠んでいる。曾良の句が傑作であるから紀行文中に置いたのではないだろう。この句の作為の強さが芭蕉の句の不在を際立たせている。
さて、実際には松島で芭蕉の発句も残されていた。掲出句である。多くの島が散らばっているのが松島の特徴であるが、それがよく捉えられている。神が大きな島に手を下して砕いた直後の景を描いたとも言える。『おくのほそ道』本文の松島全体の部分の描写は次のように終わる。「ちはやぶる神の昔、大山祇のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ」。意味は「これは遠い神代の昔、大山祇の神がなしたわざであろうか。造物主の仕事はいったい誰が絵筆をふるい、詩文で表わし尽くすことができるだろう」。すばらしい風景に神の手技を見て取っている。芭蕉は句を捨てて、そのイメージを文章の中に生かしていた。
政宗が高麗土産梅咲きにけり 實
春風や聖者失せたる洞ばかり
※この記事は2003年に取材したものです
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