川と海が交わる場所のはなし|へうへうとして水を味ふ日記
「チョプラン」とは、台湾花蓮県豊濱郷を流れる大きな川「秀姑巒溪」と太平洋が交わる河口付近一帯の場所を指す。昔々、台湾の東に浮かぶ島「ボトル」を丸太船で出発した台湾原住民族アミ*の人々の一部はこのあたりに漂着し、各地に広がっていったらしい。河口のなかほどに小さな島があり、水量によって陸地と繋がる。
「サワリアン」(Sawalian)と名付けられたそのスタジオは、そんなチョプランの北岸、港口部落[マクタアイ](Makotaay)にあった。
サワリアンを運営するのは、妹のラファイ(Lafay)さんとお姉さんのラパ(Rapah)さん、そして姉妹の母親アリク(Arik)さんの三人。衣食住や歴史など地域の伝統文化を研究し、広めるためのエコツーリズムも企画する。アリクさんは幼いころ大病をきっかけに、巫女として伝統医療の巫術を学んだ。近代化のなかでそうした伝統は失われたが、今は記憶を辿りつつ当時の巫女たちの踊りや祈祷、昔ながらの伝統衣装、食事といった集落の伝統文化を再現するべく奮闘している。サワリアンとはアミの言葉で「東側」や「東海岸」を意味する。
海を見れば、水平線に向かって大海原の色が青黒くなっていく。黒潮だ。流れがはやく透明度の高い黒潮は、光が反射する不純物が少ないので黒っぽく見える。台湾東部の花蓮県豊濱郷、港口部落。もう少し南へ行けば北回帰線が走り、その向こうは台東県だ。北回帰線と黒潮、川と海とが集う場所。ここでは、「集合」の磁力に引き寄せられるように多くの事が起こってきた。
まず「Cepo‘戦役」(1878年)が起こった。当時、台湾を統治していた清国の軍隊が武力で現地のアミを制圧し、165名にもおよぶ青年らが命を落とした。集落の中心的な存在を失った村人は他所へ避難するなど散り散りとなり、その後の地域持続や発展におおきな打撃を与えた。
さかのぼって1803年には日本から「順吉丸」が流れ着いた。順吉丸は函館を出帆して江戸を目指していたが、大シケで遭難して波のまにまに南へと流される。漂流から67日目、ようやく陸にあがった漂流民を迎えたのは言葉の通じない海の民であった。男も女も目鼻立ちはくっきりしてすらりと背が高く、織物の白い布を組み合わせた衣服をまとっている。男は腰に鉈のような大きな刀をさげ、足は裸足で、この場所を「ちょぷらん」と教えてくれた。
ちょぷらんの人たちは魚をとり、キョンやイノシシといった獣を狩り、畑で作物をつくって暮らしをたてた。料理のための土器は、土の取れる山奥に暮らす別の先住民と塩などの物々交換で手に入れた。たまに漢人の商人が舟でやって来ては市をひらき、鉄鍋や火縄銃、布織物といった珍しいものを並べて売った。順吉丸のひとびとを待っていたのは、4年間の使役労働である。助けられた漂着民は、お礼として村のために働くのが海の民の慣習である。
故郷を恋しく思いながら慣れない土地で働き疲れた漂着民はつぎつぎと病に倒れ、さいごに生き残ったのは船頭の文助だけである。4年の月日が流れ、文助は漢人の計らいで清朝の府城があった台南に送られ、アモイ・福州・杭州を経由してようやく日本の長崎へもどって奉行所の取り調べを受けた。そこで記されたのが『享和三年癸亥漂流台湾チョプラン島之記』で、文助の漂流の顛末が記されている。
サワリアンのアリクお母さんに会ったとき、その話を思い出して「順吉丸の話を知っていますか?」と尋ねてみると、「ええ。ええ。村の年寄りからむかし聞いたことがありますよ」と答えてくれた。
サワリアンが位置するのは、港口部落のお祭り[イリシン]が行われる海辺の祭場に下りていく途中だ。スタジオの入り口には、色とりどりの南国の花が咲いている。庭はさまざまな緑色の絵の具をパレットから直接のせたように鮮やかで、印象派の絵のようにまばゆい光をたたえる。
スタジオにはいると、自然光に照らされた自然素材の陰影や造形に心を奪われた。藤や竹を編んだ電灯や苧麻やタパ(樹皮布)のバッグが並ぶ。
このとき、日本やパリ、ニューヨークでも人気のある台湾のKamaro'an(カマロアン)というブランドが頭に浮かんだ。カマロアンは、アミをはじめ台湾原住民の伝統工芸にインスピレーションを得たバッグや照明器具をつくっているが、設立者のひとりはここ港口部落にルーツをもつ。MoMAでも販売されるなど国際的にも注目されてきたブランドは一朝一夕にできたものではなく、サワリアンのような文化蓄積を背景にもっていたのかと感心し、納得もした。それほどに素敵な空間なのである。
「現代的なデザインにすれば若い世代も興味を持ってくれるかもと、色々と工夫して作っているの」
妹のラファイさんがいう。
「伝統文化や歴史を学べば、私たちの先祖がどれだけ自然と繋がりながら生きてきたかを知ることができる。それは、じぶんたちの誇りを取り戻し、自己肯定感を得ることでもあるの」
台湾原住民族にまつわる社会問題が次第に認識されるようになったのは、70年代後半より始まった台湾の民主化運動においてである。
戦前は日本人、戦後は漢人を中心とした格差社会のもと男性は遠洋漁業をはじめとする重労働を担い、都会で性産業に従事する女性も少なくなかった。日本時代には日本人らしい名前を、戦後には漢民族のような名前を押し付けられた。清国、日本、中華民国と支配者が変わるにつれ、呼び名も「番人」「蕃人」「高砂族」「山地同胞」と変化するが、「愚かだ」「酒ばかり飲んでだらしない」といった差別や偏見をうけつづけ、自己肯定感は蝕まれていった。
そんな状況から抜けでようと多くの原住民族が立ちあがったのが、80年代より始まった「土地を返せ」「名前を返せ」など尊厳を回復するための「返せ運動」(原住民族解放運動)である。
そんな時代を活写して、胸に迫る詩がある。台東出身でパイワン族の詩人、モーナノンの一篇だ。
ラファイさんもそんな思いを胸に、30年前から始まった地元の「土地を返せ」運動をリーダーとして率いた。取り戻した土地は現在「マクタアイ生態藝術村(Makotaay Eco Art Village)」として地元のクリエイターを中心に運営され、国際的に先住民文化が見直される現在、世界からアーティストが「集まる」場所として注目されている。
スタジオの一角に目を引く写真があった。日本式神社の神職の写真である。日本時代の「大港口神社」のもので、ラファイさんによれば日本人神職がひとり、地元のアミの神職が二人いたという。日本統治時代の後期には「日本精神」を台湾人に植え付ける皇民化政策がすすみ、「一街庄一神社」運動で台湾全土に200余りの神社が建てられ、神道が強制された。僻地では、頭目や教師などの有力者が講習を受けて担うことも多かったらしい。
日本語も少し話せるアリクさんによれば、集落では日本の新年や出征前、結婚の際に神社を参拝したという。また、神道強制のもと集落の人々にとって心の拠り所である伝統的なお祭り[イリシン]を守るため、日本側の提案を呑んで神道のスタイルを一部取り入れた。男性が頭につける羽冠の後ろに、白く長い布の束(紙垂)を結びつけたのである。
毎夏に行われる港口部落のイリシンでは、今でも男性の羽冠の後ろに紙垂のような白い布がなびき、かつての記憶を残す。かつては紙で出来ていたが、耐久性がないので今はプラスチック素材に変わった。大港口神社の社殿はもうないが、灯篭と鳥居も残されているという。
最後に、サワリアンで観た忘れられない布の絵の話をしよう。
「パタトマリウ(patatomaliw)」をイメージした、ラファイさんの作品だ。パタトマリウとは、相手と自分の名前を交換して互いに傷つけあわないようにするための個人的な儀式である。
アリクさんは幼いころ、漆の木に触れた部分の皮膚が赤く腫れて、耐えがたい痛みに苦しんだ。そのときアリクさんのお母さんが教えてくれたのが、漆の木からじぶんの身を守る小さな儀式である。アリクさんはそれ以来、漆の木のそばを通るたびに、それを実践するようになった。それは、
「私は漆の木です。あなたはアリクです。どうか私に害を与えたり、触れたりしないでください」
と敬意をこめて呼びかけるのである。自然と人間がお互いに名前を与えたり受け取ったりすることで上下の関係なく同等の立場で共生していけること、ラファイさんの絵はそんな希望をあらわしている。
相手と名前を交換する。大切なじぶんの名前だからこそ、敬意を持つ相手と交換できる。そんな人たちが名前を長年奪われてきた歴史に思い至り、泣きたいような気持ちになったが何とかこらえた。
それからスタジオを出て、河口へいった。川と海の交わる様々なものが「集合」するチョプランの岸に立ち、水を舐めてみた。この水は塩辛いか、辛くないか。
それは辛いような辛くないような、苦いような、でも自分の体液でもあるような、そんな不思議な味がした。
文・写真・イラスト=栖来ひかり
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