義弟が語る司馬遼太郎の実像「学生の私にも分け隔てなく接してくれる人でした」(上村洋行さん)
両親が亡くなったとき、大学生で自立もできなかった私は、姉(福田みどり)と夫である司馬遼太郎の家に居候することになりました。大きな図体で飯ばっかり食う学生が突然、うちに転がり込んで、嫌な顔をされるかと思いましたが、司馬は、ごく自然に快く受け入れてくれた。今もって感謝の気持ちでいっぱいです。
後年、この記念館で司馬の作品年表を作ったとき、当時、司馬は猛烈な忙しさだったのだと初めて知りました。ちょうど「竜馬がゆく」の終わりのころで、常に新聞小説が2紙、月刊誌が3冊、週刊誌も3冊、連載を持っていた。そういう状況がずっと続くのに、さらに「坂の上の雲」と「街道をゆく」も始まる。どの作品も軽く書ける小説や紀行文ではないし、しかも、大部分がベストセラーです。こんなによう書いてたなと驚きでした(笑)。
近くて遠いスーパーマン!?
姉は新聞記者で、司馬の同僚でした。ナイーブなのに、ちょっとした豪傑というか、なかなか面白い人で、司馬を支えてやらねばと仕事も辞めるんですが、ふたりは友人同士、親子関係、師弟関係、仲間みたいでもある。人間関係の要素が全部詰まっているような間柄で、しかも両方が師にも弟子にもなれるし、親子の立場も逆になる。僕から見ると、妙な夫婦、けったいな夫婦です。こういう夫婦もいるんだと、それまでの概念を壊されたような感じでした。
ふたりは散歩を習慣にしていましたが、町で話しかけられたりということは、ほとんどなかったそうです。ところが、記念館が開館したら、「ここで会った」「すれ違った」「喫茶店で奥さんが食パンの耳を残してはった」なんてことまで(笑)、いろいろな報告がくる。みなさん、町のひとりとして接してくれていたんですね。司馬にとっては、ごく普通の生活空間が保たれたのは、ありがたかったと思います。
司馬はつきあい方に分け隔てのない人でした。なんにもわからない学生の私など、話し相手にしても役に立たないと思うのですが、司馬はにこにこと耳を傾け、時に「どう思う?」と意見を聞いてくれる。自分が一人前に扱われたようで、とてもうれしくなるんです。それは編集者に対しても同じで、
「司馬先生の担当になって、はじめて編集者としてきちんと対応していただけた」という方がとても多いです。
私は司馬と同じく新聞記者になり、結婚して近所に住み始めてからも毎週一緒に食事をしていました。何しろ話して楽しいんですよ。「街道をゆく」のころは、安野光雅画伯、編集者やカメラマンだけでなく、他社の記者や学者、時には出版社の幹部が顔を出すこともありました。食卓や居間で司馬を囲んで車座になって、はじめは他愛のない話から始まるんですが、だんだん司馬の独壇場になる。その話は、そのままエッセイ、文化論として記事にしたいというくらい、まさに知的エンターテインメントでした。今でもその話を録音しておけばよかったと思うことがありますよ(笑)。
事件が起きると、記者の私は「苦しい時の司馬頼み」とばかりにコメントをもらいましたが、その言葉をメモして上司に報告すると、想定していた文字数を大幅にオーバーしていても、「そのまま掲載しよう」ということになる。それくらい司馬の話は、文章として成り立っていたのです。
資料も取材も大切にした司馬
今は、AI、仮想現実も発達して、経験したことのなかったものが、我々を覆ってくるような時代です。旧制中学のころから、本をたくさん読んで、自己を育ててきた司馬は、小学6年生の教科書に掲載するために執筆した「21世紀に生きる君たちへ」で、未来を担うこどもたちに語りかけました。こどものころから、本を読み、手書きでメモをとり、人の話をよく聞く。わからないことは辞書で調べたり、現地へ行って自分の目で見てみる。司馬は文献資料で調べていても、「現地に行くと違っていることも多い。違えば違っているほどうれしい」と語っていました。
ここはアナログの知識の原点ともいえる本を見つめながら、いろいろ考える空間です。司馬が大切にしていたものから、何かが伝わることを願っています。
文=ペリー荻野 写真=荒井孝治
──ひととき本誌では、歴史学者の磯田道史さんが司馬作品ゆかりのスポットをめぐりながら、今も変わらぬ大阪の町と人の魅力を探ります。また、俳優の竹下景子さんにも司馬作品の魅力を語っていただいております。ぜひ本誌でお楽しみください!
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出典:ひととき2023年9月号
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