歴史学者・磯田道史とめぐる司馬遼太郎の大阪散歩
小学生時代から司馬作品の愛読者という歴史学者・磯田道史さんと歩く大阪の旅。その始まりは、緑豊かな寺町めぐりから。
天王寺七坂
大阪城の南、難波宮から天王寺までの上町筋周辺には、約200もの寺社が立ち並ぶ。かつて大坂*を支配した豊臣秀吉は、ここに寺を集め、頑丈な門と分厚い土塀が壁となって連なるようにして、城塞の役割も担わせたのだという。寺と寺の間を通る真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂の通称「天王寺七坂」は、今は散策コースとして人気だ。
司馬は江戸と大坂の盗人が腕を競うという風変わりな短編「泥棒名人」の中で、この辺りのことを記している。
江戸は市中に谷と崖と坂がふんだんにあるが、葦のしげる淀川の三角洲に発達した大坂の町は、そうした凹凸にめぐまれていない
江戸の泥棒・音次郎が向かったのは、源聖寺坂だ。
源聖寺坂をのぼれば、死者の町である。築地塀のくずれから卵塔がのぞき、死霊を擁した本堂のいらかが、月もないのに暗闇の空へぶきみな薄光を放っている
恐ろし気な書き方だが、実際に歩いてみると、日差しもよく届く緩やかな階段状の坂道だ。坂の上の齢延寺には、江戸後期、漢学塾「泊園書院」を開いた儒学者、藤澤東畡・南岳父子の墓所がある。砲術家の高島秋帆や明治期に外務大臣となる陸奥宗光らが学んだ泊園書院は、関西大学の礎のひとつとなった。司馬も小説『世に棲む日日』の中で、吉田松陰が影響を受けた変わり者の学者・森田節斎が、東畡と対面した場面を描いている。また、口縄坂付近の浄春寺には、やはり江戸後期の天文学者・麻田剛立、画家・田能村竹田、春陽軒には国学者の尾崎雅嘉、太平寺には医家・北山寿安の墓所もある。
磯田さんによると、大坂は、新しい思想を持った人たちにとっては、願ってもない「解放区」だった。
「麻田はヨーロッパの最先端の軌道計算を学んで、豊後を離れた人ですし、竹田も豊後の岡藩で藩政改革を訴えたものの退けられてここに来た。中国の科挙やヨーロッパの会議など、身分に基づかない制度を知る知識人、オタクがこの界隈に集まって、想像を絶する会話が飛び交っていたと思いますよ。江戸徳川の武士の世界は、政治力と武力、力が強い相手だから、出したくもない年貢を出す。力の支配です。大坂の支配は、知識と財力。お金を持ってる相手に品を出す。経済の論理で動く町なので、思想統制が難しい。江戸とは庶民の自由度が違います。それがよくわかるのが、墓ですね。大坂の豪商の墓はものすごく大きく、大名並みのものさえある。江戸でやったら大事ですよ(笑)。大坂は人々の耳目を驚かせてもいい。その余風が、今もみんなの目を引く巨大な蟹の看板でしょう」
道筋が蛇(口縄)のようと言われる口縄坂は高台「夕陽丘」に通じている。地名の由来は、古来、ここから眺める大坂湾の夕陽が美しく、13世紀、歌人の藤原家隆が「夕陽庵」を結んだこととされるが、近世、革新的な考えを持つ人々がここで熱く語り合ったと思うと、この地名は青春ドラマにも通じる気がしてくる。
江戸幕府の命運が尽きようとしたころには、寺町の一角の萬福寺が、「新選組大坂旅宿」となった。
「多くの若者が学び、自由の風が吹く町に新選組が滞在したというのは面白いですね。近所には大坂の陣で敗れ、逃れてきたと伝わる真田信繁(幸村)の終焉の地・安居神社もある。さまざまな考えの人間が交錯し、歴史の現場になった地域だと思います」
洪庵が開いた適塾
もう1カ所、大坂の学びの場として知られるのが、幕末の医学者・蘭学者の緒方洪庵が開いた北浜の「適塾」だ。
岡山足守藩士の子として生まれた洪庵は、大坂、長崎で蘭学を修め、29歳のときに学塾を開く。その評判は高く、全国から入門者が集まり、橋本左内、司馬の『花神』の主人公となる大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介ら多くの人材を育成した。
適塾は、オフィス街に町屋の姿をそのままに保存されている。塾生が貴重なヅーフ辞書(蘭和辞書)を奪い合うようにして学んだ「ヅーフ部屋」、多くの塾生が寝泊まりした大部屋には彼らが柱につけた傷も残り、往時の学習熱をしのばせる。
亡くなる7年ほど前、司馬は、小学5年生に向けた「洪庵のたいまつ」という文章を書いた。その出だしは、
世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない
洪庵は病弱な自分を歯がゆく思っていたが、司馬は、
人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる
と記す。自分の志の火を弟子たちに移し続けた洪庵への尊敬と、こどもたちへのエールが込められた一編だ。
文=ペリー荻野 写真=荒井孝治
──磯田さんと取材班はこの後、大阪繁栄のシンボルである「大阪城」、そして夜の道頓堀へと向かいます。談論風発博覧強記、話し出したら止まらない磯田さんの名調子はこの後も絶好調。続きはぜひ本誌9月号をご一読ください。
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出典:ひととき2023年9月号
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