《地獄の樹》愛の幻想に囚われた人間の悲しみ|『続 中世ふしぎ絵巻』
私は衆合地獄*が好きである。親鸞聖人にならって「地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』)と思い、さらに厚かましく地獄のなかの自分の居場所を指定できるのなら、八大地獄のなかで衆合地獄が一番だろうと私は考えているのである。等活地獄や黒縄地獄より重く、叫喚地獄よりは少しだけ軽いこの地獄は、愛欲の性という人間の業の悲しみに満ちている。
滋賀県大津市比叡辻に聖衆来迎寺という天台宗の寺院がある。鎌倉時代に制作された国宝「六道絵」の伝来で知られているお寺である。もうずいぶん以前のことになるが、その六道絵の図版を眺めているとき、衆合地獄の画面に二本の樹が立っていることに気がついた。一本の樹の先端には美しい女房姿の女がおり、下からその女をめざして樹を登る男の亡者の姿も描かれていた。もう一本の樹には逆に下りようとする男が描かれており、美しい女は樹の下に移動している。男女の描き方から考えると、この二本の樹が異時同図法で描かれていることは明らかだった。つまり二本の樹は、男の亡者が樹を登り下りする時間の経過を描き分けていたのだ。
しばらくしてから、この地獄の樹が国宝『春日権現験記絵』にも登場することに気づいた。地獄絵を描くシーンの隅に、やはりこの二本の樹が立っており、裸の男が血を滴らせながら登り下りしている。男がめざしているのは、ここでも一人のかわいらしい女である。彼女は時に樹の先端にすわり、時に樹の根元に移動しながら、男を誘っているように見える。厄介なのは美人画から抜け出したようなこの女だけではない。樹も悪意に満ちている。樹の葉はスズカケノキの葉のような形をしているが、じつは鋭利な刃物となって男の体を傷つける。しかも男が樹を登ると枝は下を向き、樹を下りると枝は上を向いて、男の行く手を遮るのである。
邪欲の地獄「刀葉林」
この凄惨な樹のことを『往生要集』は『正法念処経』によりながら「刀葉林」と述べている。『往生要集』は比叡山横川の恵心院にいた僧源信が、寛和元(九八五)年に述作した看取りの書で、そこに描写された地獄のイメージは、以後の六道絵・地獄絵に絶大な影響力を及ぼした。聖衆来迎寺の六道絵ももちろんその影響下にあり、『春日権現験記絵』の地獄シーンも、その影響から無縁ではありえない。
「あなたを思う因縁があって私はここに来た。あなたはどうして私に近づいてくれないの。どうして私を抱かないの」──。
女、じつは地獄の女獄卒はこのように問いかける。男はその言葉に惑わされながら、無量百千億年のあいだ、この地獄の樹を登り下りするのである。『往生要集』はこれを「邪欲」の地獄だと語っている。男はこの邪欲にまみれた自分の心そのものに誑かされながら、長い長い時間、この樹のもとに血を滴らせる。
なぜなのだろう……と男である私は思う。かりに女獄卒が美人画を切り抜いたような絶世の美女であったとしても、スズカケノキの刃で身体を切り刻まれる苦痛を堪え忍びながら、人はこの地獄の樹を、永遠に登り下りするものなのだろうか。邪欲にまみれたみずからの心に誑かされて見る幻想であるとしたら、それはあまりにも生々しい。しかも無量百千億年のあいだという、私たちからすれば永遠かとも思う果てしなく長い時間のあいだ、自分の肉体を傷つけ続けてなお目覚めることのない幻想とはいったい何であるのか。
汝を念ふ因縁
しかもである。『往生要集』で著者源信のいう、「汝を念ふ因縁もて、我、この処に到れり」とは何のことなのだろう。「あなたを思う因縁があって私はここに来た」という女の言葉は、この女が、亡者であり罪人であるその男と、過去に何らかの関係があったことを暗示している。女はその男を知り、男もまたその女を知っていたのだ。たとえそれが幻想の設定の一部であったとしても。
男は死んで地獄に堕ちた。彼はその地獄で、過去に愛しそして失った女を見たのだ。彼女は現世での姿のままで、彼を誘い続ける。その意味ではこの女もまた、たとえ地獄の獄卒であったとしても、この樹に結びつけられた存在だったことになる。地獄の樹を上下しながら、男は永遠に失った女を追って傷つき、女は永遠にその男から逃げ続ける。
これは愛という執着の地獄である。私は考えざるをえない。中世社会を生きた人びとが、男と女の愛の何ごとをこの地獄に仮託しようとしたのか。
さて、東京の出光美術館には、やはり鎌倉時代に制作された『十王地獄図』が所蔵されている。その刀葉林は薔薇の枝のように描かれており、先端には光源氏のようなイケメンの男がいて下を見ている。薔薇のトゲを握りしめて喘ぐように枝を登っていくのは、緋袴をはいた一人の女亡者である。
ここは地獄だ 衆合地獄
樹上にいるのは 結ばれなかった彼女じゃないか
痛いけど 登ろう ハグしよう
西山 克=文 北村さゆり=画
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