台湾の夜明け前。かつての少年少女の、空白のパズルピースを埋める『流麻溝十五号』|栖来ひかりの台湾映画の歩き方。
2年ほど前のある日、台湾の新北市景美にある国家人権博物館「白色恐怖景美記念園区」を訪れ、白色テロのサバイバーである蔡焜霖さんに案内いただいた。
20歳になる少し前から30歳まで、無実の政治犯として台湾東部沖の離島・緑島で10年の歳月を過ごした蔡焜霖さんは、刑期を終えたあと1960年代に戒厳令下で編集者として奮闘、雑誌『王子』を創刊し、日本の漫画を台湾に紹介して台湾の漫画文化を育んだ。また日本統治時代の教育下で培った日本語力を生かして、創業以来60年のあいだ日本の電通と提携を続けて来た広告会社・国華広告でも活躍する。司馬遼太郎の『台湾紀行』で「老台北」として登場する蔡焜燦さんの実弟にあたる。
蔡焜霖さんは1930年生まれで、2年前にお会いしたときちょうど90歳だった。30歳に出獄した蔡さんにとっては、それ以降の人生のほうがずっとずっと長いのだが、その10年間を振りかえる蔡さんの口調はまるで昨日起こった出来事を語るかのようだ。部屋の広さや人との距離、会話、温度、空気感、そのときにどう感じ何を考えたのか……。あらゆる記憶が真空パックされ、「次世代に伝えなければ」という使命感のため生き生きと保たれている。
43年も続いた白色テロの時代
事の起こりは1950年9月10日だった。1947年に二二八事件が勃発し、蒋介石が南京から台湾に中華民国政府を移した翌年のことである。
1949年より始まった台湾の政治弾圧は「白色テロ」と呼ばれ、戒厳令が解除された1987年までの38年間をいうのが一般的だ。しかしもっと厳密にいえば、「刑法100条」が1992年に廃止されるまでの43年間を指すと蔡さんはいう。
「刑法100条」とは
というもので、「意図し、考えたり」あるいは「口にした」だけで恣意的に反乱罪に問うことのできる法律のもと、多くの人が犠牲となった。
その日、台中県清水の役所で残業をしていた蔡焜霖さんのもとに、幼い弟が見ず知らずの人を連れてやってくる。その見知らぬ人は、蔡さんを探している人がいるので一緒に警察署まで来てほしいという。何のことかわからないまま警察署まで案内した蔡さんは、そのまま彰化の憲兵隊に連れていかれ、激しい尋問をうける。更に、突き付けられた容疑を否認すると、今度は足の指に電流を流すという凄まじい拷問に遭う。蔡さんはそのとき初めて、憲兵隊に連れて来られた理由が高校2年生17歳の時に「とある読書会」に参加したからと知る。
17歳といえば太平洋戦争後の1946年ごろで、中華民国が台湾に正式に移転する1949年より前だ。読書会で読んだのは魯迅や巴金。しかし、そうした読書傾向は当時のエリート台湾青年にとっては通過儀礼のようなもので、日本の植民地支配のもとで芽生えた民族主義や台湾人として平等な待遇を求める故の社会主義思想の入り口に過ぎず、刑法100条にある「国家転覆を意図する」等とはかけ離れたものだった。一時的に収監された台南で「軽くても10年の懲役」と耳にした蔡さんはパニックに陥る。しかしそれから長い歳月、蔡さんは故郷・台中清水の土を踏むことは叶わなかった。
麻縄で手を縛られ、台北に連れて来られた蔡さんは、日本時代の東本願寺(現:西門の獅子林ビル)にあった台湾省保安司令部保安處に収監される。調査尋問を司る憲兵隊、保安司令部保安處、国防部保密局などの情報機関で拷問は日常的に行われていた。国家人権博物館の展示では「親指のみ縛られて吊るされ棒で打たれる」「塩を大量に食べさせ、一日水を与えない」「氷の上に座らせて身体を麻痺させながら棒で打つ」といった事が、実際の体験を元に図説されていた。
蔡さんが次に送られたのは、現在、立法院やシェラトンホテルがある附近(青島東路)にあった「軍法處」で、裁判と判決を司る機構だった。
「軍法處」には東所と西所があり、西所には軍事犯、東所には政治犯が留置され二階は女性用だった。一階には36間の収監部屋があり、6坪ほどの牢屋に30人以上の人がぎゅうぎゅうに押し込められた。中には蓋のある樽状トイレがひとつ。与えられた空間は、ようやく人ひとりが寝そべることが出来るだけの狭さである。新入りはトイレのそばで寝起きする決まりで、収監された日数が長くなるほど、少しましな場所へと移動した。空気の流動が殆どないので蒸し暑く、牢屋のまん中に吊るされた大きな麻布の位置を動かして空気の流れをつくり、かろうじて部屋の温度を下げた。
最も恐ろしかったのは夜明け前だ。この時間に名前を呼ばれて出る囚人は銃殺刑と決まっており、二度と戻ってくることはなかった。銃殺刑に決まった囚人は今の青年公園あたりの新店渓沿いのエリア「馬場町」にトラックで運ばれて殺され、引き取り手のない遺体は六張犁山手の公墓にひっそりと埋葬された。六張犁には元々お墓が集中しているだけでなく、こうした事情もあって、今でも地価は台北市内の他の場所に比べて高くない。
軍法處で簡単な裁判にかけられた蔡さんは、まったく身に覚えのない罪のため10年の実刑判決を受け、トラックで運ばれ基隆より船に乗った。どこに行くかも知らされず、「沖に出れば手を縛られたまま海に投げ落とされるかも」と不安にさいなまれながら着いたのが緑島(火焼島)である。後で、乗ったのはLST軍艦で、戦後にアメリカより中華民国に援助されたものと知った。このころ、対・共産主義の最前線としてアメリカは台湾にある中華民国を支援していた。東西冷戦という国際的な政治構造の末端に、蔡さんのような無実の政治犯は大量に生まれたのである。
1951年、緑島で蔡さんの10年近い生活が始まる。囚人らは再教育されて新しく生まれ変わるという意味の「新生」と呼ばれ、施設を建設したり整備したりする肉体労働に狩りだされた。女性囚は番号で、男性囚は名前で呼ばれた。緑島の島民は最初、政府の宣伝で「殺人放火の犯人よりも凶暴な悪者がやってくる」と教えられ、ずいぶん怯えていたらしい。しかし予想と違い、島にやってきた受刑者の多くが医者や教育者、若い学生であると知り驚いたそうだ。結果的にこれらの囚人が緑島に当時最高レベルの医療や教育を持ち込んだことは、今でも島民の語り草になっている。
白色テロを映画で描く意義
ところで、蔡さんのように緑島に送られた人々について、台湾ではこれまで多くの台湾人がその事実についてよく知らないのみならず、白色テロの被害者についても男性の語りが中心だった。そこで、透明化されてきた女性囚たちの目線から史実を元に映画化したのが、2022年秋に台湾で公開された『流麻溝十五号』だ。監督は、これまでレズビアンを題材にした前衛映画を撮ってきた女性監督、ゼロ・チョウ(周美玲)。
「流麻溝」とは、緑島の住民の飲料水の水源となってきた最も大きな川の名前で、15号は受刑者の戸籍謄本に記された受刑中の所在地である。英語タイトルは「Untold Herstory」。これまで語られてきたHistory(歴史)=男性の物語に対して、Herstory(彼女の物語)と名付けたところにこの作品の意図が大きく表れている。
じつは戦後の複雑な政治史を描いた台湾映画はそう多くない。二二八事件に関しては今年デジタルリマスター4K版が公開されるホウ・シャウシェン(侯孝賢)監督の『悲情城市』が日本でよく知られるが、そのほかエドワード・ヤン監督の『牯嶺街少年殺人事件』、萬仁監督の『超級大國民』、人気ゲームが原作となった『返校 言葉が消えた日』(監督・徐漢強/2019)など長編映画は数えるほどしかない。台湾が民主化の道を歩み始めてすでに30年の月日が経ち、台湾史において非常に重要な事柄であるにも関わらず、だ。
だから、同じように日本の植民地経験を持ち1980年代に民主化を果たした韓国から、『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年)をはじめ民主化運動を描いた数々の作品が届くたびに、幾人もの台湾友人から「韓国には作れて、どうして台湾では作られないのか」と苛立ちの声を聞いた。
そうした背景を考えれば、数人の女性主人公と彼女たちのシスターフッドに軸足を置きつつ、囚人か体制側かを超えすべての登場人物の尊厳を描こうとしたこの作品の登場は、台湾史を構築するうえでも人権問題として白色テロを考えるうえでも、とても大きな意義がある。
特に印象的なのは、囚人のほか獄卒や島民も含めて非常に多様なバックグラウンドを持っていることが、緻密に表現されたところだ。白色テロの犠牲となったのは、戦前より台湾に住んでいた台湾籍の人々(いわゆる「本省人」)だけではない。大まかな統計によれば、「本省人」55%に対して45%の白色テロ被害者は蒋介石の国民党と共に戦後に台湾へやってきた人々(いわゆる「外省人」)で、これは「言語」を通してかなり細やかに描かれている。
例えば、獄中では台湾語、日本語、英語、原住民族の言葉のほか、山東・浙江・広東・湖南・四川と中国各地の特徴を持った北京官話(マンダリン、いわゆる中国語)が使われる。主人公のひとりでダンサーの囚人女性は山東煙台の訛りのある北京官話を話すが、このキャラクター造形は実在した人物のコラージュでもある。
彼女が山東煙台出身者であるのは澎湖島で起こったスパイ容疑による冤罪事件で、多くの山東煙台出身の学生や教師が虐殺された事件に関連する囚人であることを示す。またダンサーという属性は、台湾コンテンポラリーダンスの第一人者であり、緑島に3年投獄された蔡瑞月がモデルだ(実際、映画の中で踊られるダンスも蔡瑞月がかつて作ったダンスである)。蔡瑞月は日本統治時代に台南に生まれ、高等女学校卒業後に日本に留学、日本におけるモダンダンスの先駆者である石井漠に師事した。
蔡焜霖さんもまた、蔡瑞月さんをよく覚えている。緑島では囚人によるレクリエーションが頻繁に行われ「康楽活動」と呼ばれていた。昼は労働で体力を消耗させ、夜は演芸活動に駆り出して、頭を使う暇のないほど受刑者らを疲弊させるのが強制収容所管理の常套手段だった。
蔡さんもその日、昼のあいだ山へ草刈りに出されてへとへとだった。小さな腰掛に座り、一刻もはやく部屋に戻って休みたいと俯いていると、急に「わぁっ」と大きな歓声が聞こえた。蔡さんが頭をあげると、舞台上では蔡瑞月さんの指導による華麗なるダンスが繰り広げられていた。その美しいことと言ったら。そして空を仰げば満天の星――この出来事のおかげで、蔡さんは「これから強く生きていこう」と胸に誓ったという。
誰かが自分らしくあろうとする姿、どんな状況にあっても前に進もうと励む姿は、それを観る人をも勇気づける。タブー視され、長いあいだ押し込められてバラバラになった歴史のパズルピースを拾い集め、その空白にひとつずつ嵌め込んでいくような映画づくりという作業もまた、自分らしく生きたいと願う子供たちの未来を灯台のように照らし出す。
蔡焜霖の激動の人生を描いた漫画『台湾の少年』
残念ながら、この映画が日本で公開されるという情報は今のところまだ聞いていないが、蔡焜霖さんについては詳しく知ることが出来る。
蔡焜霖さんの激動の人生を描いた『台湾の少年』(全4巻)という漫画が岩波書店より出版され、現在3巻まで出ている。日本の植民地下で過ごした少年時代、無実の罪で緑島に収容されて奪われた青春の日、出所したあとに蔡さんを待っていた余りにも悲しい家族の知らせ、戒厳令下での奮闘、そして失った日々を取り戻そうと急ぎすぎた事業のため再び迎える人生の冬……と、蔡焜霖さんという個人史から激動の現代台湾史が浮かび上がってくる。
訳者の倉本知明さんの故郷の方言で訳されたホーロー語(台湾語)、色分けされた日本語、台湾華語(中国語)のセリフなど、複雑な台湾の言語環境を表現するための工夫が丹念に施されているところも素晴らしく、もしいつか『流麻溝十五号』を観る機会があるときは、絶好の理解の助けとなるに違いない。台湾の白色テロや緑島に興味を持った方には、ぜひとも手に取っていただきたいグラフィックノベル・シリーズである。
台湾の“白色テロ”の歴史を学べるスポット
文・絵=栖来ひかり
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